火のついた踵
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)把手《とって》

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)どの位|呑気《のんき》だか判らない。

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)人  物[#ゴシック体]
*入力者注だけの行は底本に挿入したもの、行アキしない
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[#本文の台詞部分は2行目から、その台詞の最後まで天より1字下げ。]

    人  物[#ゴシック体]
  奥平振一郎  統計学者(三十歳)
    みさ子  振一郎の妻(十八歳)
  橋詰 英一  みさ子の従兄(二十四歳)
  谷  三郎  英一、みさ子の友人(同)
  吉沢 朝子(登場せず)みさ子の友達(十九歳)
     女中 きよ

    場  所[#ゴシック体]
  東京。

    時[#ゴシック体]
  現代。或る五月。

[#ここから4字下げ]
第一 奥平の客間

上部の壁や天井は白く、下部を、暗緑色の壁紙で覆うた洋室。
正面は、浅く広いヌック。大きい三つの窓に、極く薄い肉桂色の窓帷が、黒い鮮やかな飾紐で片よせられ、簡素な形のマホガニーの円卓子、布張の椅子、たっぷり薔薇を盛った花壺等が置かれている。
上手の壁際には、大きな金縁の額。書棚。長椅子。重い暗色の垂帳で、隣室と境している。
下手は、一間半ばかり、透硝子のフォルディング・ドーアになっている。前後三尺ずつの壁間は、ヌックよりに彫像、繁った灌木の鉢。下手には、背の高いヴィクター、二人掛の腕椅子等。硝子の折畳扉から差す日が、如何にも晴々と、床に流れ、家具を照し、扉の金色の把手《とって》や、鉢植の新緑を爽やかに耀《かがや》かせる。
幕開く。舞台は空虚。
光りや色彩の快感が、徐《おもむ》ろに漠然とした健康や活力の感を看る者に味わさせた頃、上手の垂帳から、みさ子が出て来る。(藤色のネルの着物、全体、さっぱりした服装)
[#ここで字下げ終わり]

みさ子 (部屋に入りながら、振返り)一寸こっちへ来て御覧にならないこと? 綺麗よ。今日は、私がすっかり大掃除をしたんですもの。
振一郎 (黙って入って来る。黒っぽいセルの着付。四辺《あたり》を見廻し)ほう。綺麗だね。
みさ子 この部屋は、日がよく射すから、猶気持が好いわ。(ヌックの方へ行く)御覧なさいませ。一寸この薔薇! 素敵でしょう? 私こんなのが咲くとは思わなかったわ。
振一郎 (気がなさそうに)よく咲いたね。
みさ子 匂いをかいで御覧遊ばせよ。いいじゃあないの? ほら!(花壺を持ち、顔を埋めるようにして匂をすい、良人の鼻先に出す)
振一郎 うむ。いいね。花を持った枝は切る方が、来年のために好いんだよ。
みさ子 そうお。私が好きだから、どうせお部屋の花に切ることになってしまうわ。(ヌックの卓子の上に花壺を置き、そこの椅子に坐る)貴方もおかけにならないこと?
振一郎 (ぶらぶら行って、向い合わせに掛ける)英一さん達は幾時頃来るの?
みさ子 わからないの。ただ、お昼っからって云ってよこしただけなんですもの。――でも、きっともうじきに来るんでしょう、どうせ日曜ですもの一日、あの人達は暇なんだわ……(調子をかえ)貴方も今日はいいでしょう?
振一郎 さあ……
みさ子 駄目?
振一郎 しなければならないことがあるからね。
みさ子 (失望を押え)たまだからいいじゃあないの? 一寸でいいから一緒にお茶でも召上れよ。
振一郎 しなければならないことを控えて、表面ばかりおつきあいをしなければならないことはないだろう?
みさ子 それはそうだわ。――だけれども――あの人達だって、随分久しぶりで来るんですもの……
振一郎 あなたが、ゆっくり遊んであげれば結構じゃあないか。
みさ子 だって……(深く顔を曇らせる、遠慮しながら)貴方、あの人達の来るのがお厭なの?
振一郎 どうして? 僕がそんなことを云ったかい?
みさ子 おっしゃりゃしないわ。けれども――若し、悦んで下さるなら、暫くの間位、皆で、気持よく楽しんで下さるのじゃあないかと思うの。貴方は、私独りで遊んであげれば好いだろうっておっしゃるけれど――そうじゃないのよ。
振一郎 僕は僕で、仕事の責任があるんだから、仕方がない。ね? そうでしょう? あなたや、英一さん達みたいに、遊んでいて好い人間ではないんだから。
みさ子 (淋しそうに)何だか、きめっこのようね。私一度でも好いから、貴方にも一緒に面白く遊んで戴きたいわ。いつも、いつも――お仕事!
振一郎 そんな子供のようなことを云うものじゃあない。
みさ子 (涙ぐみ)子供のようなことじゃあないわ。どこに、自分の好きな人も一緒に楽しまないでいるのに、平気で嬉しがっていられる人があって?(強いて確かりし)ね、貴方、これからこうしようじゃないの? 貴方が来て貰っては困るとお思いになったら、はっきりそう云って頂くの。そして、私、断ってしまうわ。その方が……どんなに心持が好いか判らない……
振一郎 何もあなたの処へ来ようという人を、僕が厭だって断る訳はないじゃあないか、そんなエゴイストじゃあない。
みさ子 それが間違いだとはお思いにならない? 来る人は、私共二人[#「私共二人」に傍点]の処へ来るのよ。それだのに(涙が危くこぼれそうになる)いつも、私一人ぼっちでお相手をして、奥平さんはどうなさいましたって訊かれるの……おまけに貴方はちっとも楽しそうではないんですもの――私、どうしていいか判らなくなってしまうわ。
振一郎 判らないことはない。あなたは僕のことなんか忘れて、愉快にすればいいんだ。その方が、僕にとったって、どの位|呑気《のんき》だか判らない。
みさ子 (疑わしそうに、良人を見)そう? ほんとに?
振一郎 (力を入れ)ほんとにそうだとも! 若し僕が暇で気が向いたら、いつでも出て来て仲間に入ればいいでしょう?
みさ子 そうならほんとにいいわ。(嬉しそうに)じゃあ、後で出て下さること?
振一郎 いつ? 今日?
みさ子 (勿論と云うように)そうだわ。
振一郎 判らない。まああなただけで接待していてくれ。
みさ子 ――それじゃあ同じだわ……ああほんとに(椅子を立ち、歩き出しながら嘆息する)
振一郎 (気にし)どうしたの?
みさ子 (凝《じ》っと、憂わしげに良人を見る)私共の処でさえこうなんだから、よその奥さんが、自分のお友達さえ呼ばなくなるのは無理もないと思ったの。
振一郎 物事を、何でもそう悪意にとるものじゃあない。僕の云う真意を諒解しなければ、いつでも、詰らない衝突を起すばかりじゃあないか。
みさ子 (熱心に)ほんとに、私も私の心の奥の奥が判って頂きたいわ。理屈じゃあなく、私の感じることを、貴方の胸で感じて頂きたいわ。
振一郎 ――お互のことだ。……要求は限りないものだからね。人間は、五のものを与えられると、必ず七のものまで得ようとする。――
みさ子 ――
振一郎 とにかく、僕は失礼させて貰うから、皆さんによろしく。――勿論用があったら、いつでも来ていいんだからね。
[#ここから4字下げ]
来た垂帳の方から去ろうとする。みさ子、思わず後を追い、何か云おうとする。が、やめ、元気を失い、詰らなそうに、ぐったりと傍の長椅子にかける。
[#ここで字下げ終わり]
みさ子 (ひそやかに、独白)ああ、どうして、ああなんだろう……?
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長椅子の端に肱をつき、凝っと前を見つめ考えに耽る。やがて、寂しさに堪えられないらしく、急に立上り、書棚の傍のベルを押す。きよ登場。
[#ここで字下げ終わり]
きよ お呼びでございますか?
みさ子 ああ、あのね、私の部屋へ行って、やりかけのスティッチを持って来て頂戴な。
きよ はい。(去る)
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みさ子所在なさそうにヌックの方に行き、腰を下して、花壺の花をいじる。寧ろ、心は内へ内へと沈み、指先だけが無意識に微かな運動をするという風。
きよ、愛らしい紅色の繻子張小籠を持って来る。
[#ここで字下げ終わり]
きよ これでよろしゅうございますか?
みさ子 有難う――鋏があったかしら(籠の中を一寸検べる)ああ、これでいいわ。それからね、お客様がいらしったら、直ぐこちらへお通しして頂戴。私ここにいるから――
きよ はい――。先ほどのお菓子は、いつものお皿でよろしゅうございますか?
みさ子 ああいいわ、あの花のついた方ね。
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きよ、軽く会釈して行きかける。
[#ここで字下げ終わり]
みさ子 あ、きよや、旦那様は何をしていらっしゃるの?
きよ (立止り)さあ……先ほど、御書斎の方においで遊しましたが……
みさ子 それならいいのよ。有難う。
[#ここから4字下げ]
きよ、去る。
みさ子、卓子の上の小籠から、白い、センター・ピースを出し、ぽつぽつ縫取を始める。けれども、心は落付かず、折々凝っと、細い指に嵌《はま》った結婚指環を眺めたり、我と我心をなだめるように、髪を撫であげたりする。感じは内に満ち、満ち、而も、表すに途のない素振り。ほどなく、垂帳の裏から、
[#ここで字下げ終わり]
きよの声 奥様?
みさ子 (頭を押えていた手を落し)なに?
きよ (部屋に姿を現し)橋詰様がいらっしゃいました。
みさ子 おひとり?
きよ いいえ、あの……
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云い切らないうちに、足音。若い男の声。
[#ここで字下げ終わり]
谷  僕も一緒ですよ。
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谷三郎、橋詰英一、連立って快活に現れる。
[#ここで字下げ終わり]
谷  やあ! 今日は。
みさ子 (ひとりでに、活々とし)まあ、よくいらしったわね。今日は。
英一 今日は。
みさ子 先ほどは、お電話をありがとう。
英一 どう致しまして。
谷  実はね。あの電話は、僕がせっついて掛けさせたんですよ。たまに上るのに留守をくわされては堪りませんからね。
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谷、英一、各々ほどよい処に自分で席を定める。
[#ここで字下げ終わり]
みさ子 (縫取を片づけながら)そうだったの? 大丈夫よ。私共が二人で留守をすることなんか、一年に、ほんの数えるほかありはしないわ。
英一 然し、何にしろ、素晴らしい天気だからな――戸外《そと》は、なかなか暑いですよ。――一寸そこをあけてようござんすか?
みさ子 ああ、どうぞ。ほんとにね、ずくんでいるもんだから……
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英一、フォールディング・ドーアの一方を開く。
[#ここで字下げ終わり]
みさ子 (其方に顔を向け)ああ好いこと。まるで夏のようね。
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英一、席に戻る。
[#ここで字下げ終わり]
みさ子 この頃はいかが(笑顔で二人に)相変らず?
谷  別に目醒ましいほどのこともありませんね。教師は教師で、生活難で萎縮し切った講義をやるし、学生は学生で、浮腰だし……(それとなく室内を見廻す)
英一 おまけに君は、中で一等の遊動体だろう(笑う)――それにしても、随分会いませんでしたね。あの音楽会は、何でも正月頃だったでしょう?
みさ子 もうそうなること? ミス・ペブロスカの時だったわね、あれは――
英一 ざっともう半年だ。あなたの方にこそ、興味津々たる話があるでしょう?
みさ子 (笑わず)そう見えて?
英一 (稍《やや》てれ)詰問されても困るけれど……(苦笑)相変らずですね。
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きよ、茶菓を運んで来る。皆黙っている間に、配り終り、静に退場。沈黙を破り、
[#ここで字下げ終わり]
谷  (みさ子に)奥平さんは? お変りなしですか?
みさ子 ええ有難う。相変らずよ、表ばかり拵えているわ。
谷  はは、表ばかり! か。――(さりげなく)ほかにお客様はなしですか?
みさ子 なし。ある筈だったんだけれども――
英一 (急に大笑いをする)ははははは。三郎、到頭兜を脱いだな?
谷  ――(知らぬ振り)
みさ子 いやね、いきなり。どうなさったの?
英一 何ね。(谷を顧み)いいだろう?
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