云っても――。
[#ここから4字下げ]
谷、わざと煙草の環をふく。
[#ここで字下げ終わり]
英一 昨日、或る友人の処へ行ったらね、吉沢のお嬢さんの噂が出てね、わあわあ云っていると、その男の妹が、あの方なら、あなたの親友だ。きっと今日あたり、奥平さんの処へいらしってよ、なんかと云ったものだから……
みさ子 まあ! それで来て下さったの? (谷の方を向き、わざとおどけ)どうも有難う。
谷  (笑いもせず)いや、どう致しまして!
[#ここから4字下げ]
皆、笑い出す。
[#ここで字下げ終わり]
谷  で、どうなったんです? 来ないんですか!
みさ子 ええ、おやめになったの、いつか静かに二人きりで話したいからって。――(真面目に)あの方も近頃は、結婚問題や何かで、随分苦しんでいらっしゃるのよ。余り美しい方だもんで、却って、種々いやなこともおありになるのね。
谷  それで、結婚生活では、少くとも半年の先輩であるあなたに、指導を仰ぎたいという訳ですか?
みさ子 (谷の一種の調子には頓着せず)黙って独りで考えているよりは、私にでも話して相談して見たいとお思いになるらしいの。無理もないわ。――お父様だって、お母様だって、お金こそ沢山おありなさるけれど、随分変な方なんですもの……
英一 両親がそんなで、娘が評判の美人では、悲劇だね。
谷  我々が来るんじゃあ、しんみりしないからということになったんですね。
みさ子 まあ、そういうことね。――でも、(間)私、どうせ、御相談は受けても、それほど頼りになる決定なんか与えてあげられる処ではないと思っているわ。
英一 どうしてです?
谷  珍らしい弱音ですね。
みさ子 (二人を見)ほんとよ。却って、結婚しないうちの方が、頭でだけ考えて、明快に、善《よし》、悪《あし》でも云ったと思うわ。事実に入って見ると――難しいんですもの。まるで、概論じゃあ、行かないのよ。例えば、相手の人の人格とか教養とかいうことだってもね、それは勿論、何かの標準にはなるに違いないけれど、友達と良人とでは、何だか、まるで違うものが現れて来るのよ。――ね、そうお思いにならなくって?
英一 さあ――
谷  そこまで行くと、我々は未丁年ですね。
みさ子 (考えつつ)結婚生活では、普通、正しい人間とか、善い人とか云っている、もう一重底の蕊《しん》が現れるのじゃあないかしら。うまく云えないけれども。つまり、こういうことになるのね。或る人が、誰にきかせても、正しいとほか云われないような考え[#「考え」に傍点]を持っているとするのよ。考え[#「考え」に傍点]よ。友達の間は、或る程度まで、その考え[#「考え」に傍点]だけで、つき合い調和して行けると思うわ。けれども、結婚した生活では、その考え[#「考え」に傍点]と、実際の物事に触れて起って来る、その人のしんからの心持[#「しんからの心持」に傍点]とが、どの位ぴったりしているか。それが直接の問題になって来るのね。だから、いくら、その考えが、思想なり、理論なりとして間違ったものではなくても、自分が、事実、胸ではこだわっていながら、正直にそれを見ないで、自分も相手も、ただ理攻めにしようとするなんか、ほんとに堪らないわ。
谷  (真面目になり)あなたの話しようが、ひどく抽象的だが、人間が純粋か不純粋かということが、第一の問題だということでしょう?
みさ子 そうね、そういうことになるでしょう。
谷  昔から、殴られても、実意のある亭主が好いというのは、そこでしょう。
みさ子 ――とにかく、厭なら厭、好いなら好いで、蕊に一点の曇もないような人があったら、どんなにいいでしょうね。言葉の奥を考えずに、そう[#「そう」に傍点]と云っただけで安心していられるようだったら……
谷  (しげしげとみさ子を見る)あなたもだんだん大人になりますね。
みさ子 (片頬笑む)――だから、朝子さん、吉沢さんね。あの方のことだって、私が、何も権威あるらしい口は利けないのよ。お互に、学校の成績とか、手腕じゃあないわ。内の内の、内のものを、見極めなければならないんですもの。――各々の直覚、心の力と、運。ね?
谷  ところが、どれほど鋭い天稟《てんぴん》の直覚を持っていたって、多くの場合、日本の現在の状態では、その触角を動す余地さえ、ないじゃありませんか。いやしくも、わが心のエッセンスを凝《こら》して、その底までしみ入ろうとするような価値のあるサークルは、皆、煉瓦の塀で囲まれている。少し云い過ぎかもしれないが、僕から見れば、あなただって、自由が最も必要な時期がすんでから、その必要を高唱し得るのだ。びっくり箱の蓋を開ける前に、中から大凡《おおよそ》どんな形のものが出るか、予め教えて下さっただけ、他人《ひと》の親より、あなたの御両親は優種だった。
みさ子 奥平と交際させてくれたこと? 比較すれば、有難く思わなければいけない訳ですわね。だけれど――(苦笑)奥平もその時は、未婚者で、私の家に遊びに来て、まさか――数字ばかり書いてもいられなかったでしょう。
谷  はははは。然し、何ですね――(躊躇する)
みさ子 (無邪気に)なに?
谷  いや――
みさ子 ――(次第に亢奮が鎮る。先刻から自分と谷とばかり喋っていたのに心付き)まあ、随分ひどい御主人役ね、一人で喋り込んで。
[#ここから4字下げ]
(先ほどから、硝子扉の傍の椅子にかけ、独りでレコードを見ている英一に)
[#ここで字下げ終わり]
みさ子 どう? 何かお気に入りそうなのがあって?
英一 大分|殖《ふ》えましたね。
みさ子 シャリアピンやなにかのが来たからでしょう?
[#ここから4字下げ]
(立って、英一の処へ来る。英一椅子から立ち、みさ子を掛けさせる。余り浮かぬ顔。ヌックの方で、こちらに背を向け庭を見ている谷の方を一寸見、低声に)
[#ここで字下げ終わり]
英一 あれに、矢鱈《やたら》なことを云ってはいけませんよ。
みさ子 (かがんでレコードを調べていた手を止め、仰向き、訝しげに)何故?
英一 (尚低声に)あいつは危険だ。ドン・ジュアンだもの……
みさ子 (笑う)平気よ。(改まり)私、誰にきかれたって、悪いことなんか云いはしません。
英一 あなたはその気でなくたって――
みさ子 いいのよ。(気を悪くし)じゃあ、貴方は、二年も前から、そんな人を、私のお友達にさせた訳?
英一 (言葉なし。みさ子が取ろうとするレコードを手早く抜取ってやる)――遣りますか?
みさ子 どう?
英一 いいでしょう。
[#ここから4字下げ]
英一、把手を廻し、針をつけなどしてレコードをのせ、蓋をする。
みさ子は、椅子の上手よりにゆっくりと靠《もた》れ、英一は反対の腕に軽く腰を休ませて聴く。谷、煙草を持ち、時々歩き、立ちどまり、凝っと、みさ子の集注した横顔を見守る。暫くの間、ピアノ、ヴァイオリンの前奏。
[#ここで字下げ終わり]
谷  何です?
みさ子 (その方は見ず、低い声で)アディオ。
[#ここから4字下げ]
静かな、明るい部屋の裡に、伊太利《イタリー》の小曲《リード》が、感じを以て満ちる。
戸外では、雲が湧いたと見え、微かな陰翳が、輝やいたフォールディング・ドーアの面を過ぎる。歌、終る、沈黙。やがて、聴とれていたみさ子が、感動の溜息とともに頭を擡げる。
[#ここで字下げ終わり]
みさ子 いいじゃあないの?
英一 何にしろ伊太利語は響がいいな。
みさ子 ほんとにいいわ。(詩句を暗誦する)
Caden stanche le foglie al suol, Bianche strisce serpon sul l'onda, ……
歌えたら、どんなにいいでしょう!
谷  稽古なさい。
みさ子 駄目よ、私の声は。――ね、だけれども、誰でも、時々、種々のことを感じて、感じて、もう歌でも歌わずにいられないようになることがあるでしょう?
そんな時、はあっと、すっかり自分の心持を歌いつくせたら、どんなにか嬉しいだろうと思うわ。私なんか、自分の感動を、まるで現わせないんですもの(だまろうとし、また、我知らず云いつづける)もとなんか、一寸悲しいことでも考えて、涙を一粒こぼせば、すっかり気分が変ってしまったけれども、この頃は――(独白的になる)だんだん、だんだん胸が一杯になって来るばかりですもの。歌いたいわ。ほんとに歌ったら好いと思うわ。歌って、すっかり私の悲しさや、寂しさや種々なものを、みんな空へ溶かしてしまうの……
谷  みさ子さん。歌えないでも、あなたの寂しさや悲しさが飛んで行ってしまう法を教えてあげましょうか。
[#ここから4字下げ]
(英一、きっとして谷の方を見返る。谷、関せず。)
[#ここで字下げ終わり]
みさ子 (自分の考えに沈んだまま、漠然と)何なの?
谷  奥平さんを、もっとあなたへ引つけて置くんです。心持の上でね。
英一 (嫉妬を感じるように)おい、詰らないことを干渉するなよ。みさ子さんだって――
谷  一人前の淑女だ、というのだろう? 決して失礼なことを云いやしないよ。僕だって一箇の人間だからね。(声を大きくし)ね、みさ子さん、あなたは自分の歓びも悲しみも、ただ奥平さんにだけ的を置いていらっしゃるでしょう?
みさ子 (単純に)そうよ。
谷  だから、奥平さんは、平気であなたを打っちゃって、青だの、赤だの1.2.3.ばかり書いていらっしゃるんです。
みさ子 だって――私は、奥平ほか――奥平だからこそ、一緒に楽しんでくれればほんとに嬉しいんだし、そうでなければ淋しいんだわ。ほかの人なんか――いくら私を放って置いたって平気よ。
谷  実にはっきりしたもんですね。(笑う)然しね、これは、青二才の僕が云うのじゃあなくて、ちゃんとした大学者も云うことですがね、異性間の感情というものは、決してそれほど簡単明瞭に片の付かないものなのです。だから御覧なさい、あなたの方こそ、そう、はっきりしているけれども、それが果して奥平さんの胸にどれだけ響いているか、疑問でしょう?
みさ子 ――それは解らないわね。安心しているのか、もうどうせ他に向きようもないときめて、放って置くのか、……。
英一 (突然、口を挾む)こういう問題は、議論すべきものじゃあないと、僕は思うね。時間が自ら証明する。まして、みさ子さんなんか、失礼だけれども、結婚してから、半年ほかほど経たないんだもの。傍から攪乱するようなことは……。
谷  ――攪乱は穏やかでないね。――君は、みさ子さんが、僕の一寸云うこと位で支配される人だと思うのか?
英一 (曖昧に)そうじゃあなかろうさ。然し――
谷  それに、夫妻というものだって、どれほど、鶴と亀とでお伽噺にしようとしたって、結局生きている人間の、男性と女性との生活だろう?
英一 そんなことは定っている!
谷  それなら、一般論として、男性女性の相対的関係を話したって、どこに悪い処もない筈だ。
英一 (焦々し)一般論に止っていればよいさ。然し僕は……
[#ここから4字下げ]
谷の、耀いた、冷静な眼で見つめられ、英一、むしゃくしゃとなる。
[#ここで字下げ終わり]
谷  仕舞まで話させてくれ。――それでね(みさ子に向い)人間は通性として、反動的なものです。自分が、何なく手に入れられ所有されると定ったものには、何といっても興味が薄れ、無感興になってしまうが、どうも難しい、余程の忍耐や手段を講じなければ、到底指も触れられないとなると、たとい、実際そのものの価値は低くても、人間は熱中し夢中になる。だからまあ、選挙などというものが、飽きもせず亢奮的《エキサイティング》な訳でしょうがね。――同じ心理が、矢張り、異性間の感情にもあるのです。
みさ子 (率直に)思わせぶりがいいの?
谷  まさか!(苦笑)そればかりということじゃあありますまい。――然し、夫婦の感情が鈍重《ダル》になるのは、確に一つは、互がもうすっかり互の所有になりきって、動きの取れない処にあるんだろうと思いますね。一方からいえば、もう死ぬまで、厭でも応でも、この男、この女
前へ 次へ
全4ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング