驍ゥ。考えて見たら、誰にでも解るじゃあないか。
みさ子 (思いがけず。却って落付き)聞いていらしったの?――却ってよかったわ。でも――立ち聞きをなさるなんて――(消え入るように)何て方でしょうね。
奥平 英一君に聞いたのだ。
みさ子 (はっきりと侮蔑を感じ)あの人が? 何て云ったの?
奥平 そんなことを、今ここで再び繰返す必要はない。ただ――私は――僅かの間でも、あなたの良人であったことを気の毒に思うよ。適当な人間ではなかったのだ。少くとも、あなたの悦ぶ男ではなかったのだ。然し(刺すように)誰一人私にそのことを知らせてくれる者はなかった!
みさ子 (蒼くなり、良人の手を掴み)貴方! 後生だから、その変な、貴方の頭にあるものを棄てて頂戴! ひどい思い違いをしていらっしゃるわ。何ていうことだろう。私は、これっぽっちだって、谷さんなんか愛していやしなくってよ。
奥平 (疑い深く)どうしてそれが断言出来る? 自分が侮蔑し、価値を感じないものに、あなたは自分の苦痛を訴えるか? 下男に泣言が云えるか? 自分が、より好意を感じている者に対してでなければ、人間は、決して自分の弱点は示さないものなのだ。
みさ子 ――私は、ちっともそんな風には考えなかったわ。私の苦しみは、私の弱点? 私は、ただ、もとから種々なことを話して来た友達に、自分の心持ちを云っただけだのに。――
奥平 つまりそれほど、心の親しみが深いということになるのだ。離れ難く思うからこそ、どんなに境遇が変っても、その友情だけは、保って行こうとする。――(堪え難いように、ばしばしと)私は、はっきり云って置くがね、決してあなたの重荷となる積りはないのだ。私はいつでも、悦んで、あなたに自由を与える。よく考えて、遠慮はいらないから、自分の行きたい道を進めばよい。ああいうこともあった、と私は万事を、過去に埋めてしまおう。それが一番いい。私には――私の書斎がある。……
みさ子 (涙をこぼし)そうよ! 貴方には貴方の書斎がある[#「書斎がある」に傍点]。だから、そんなことをおっしゃれる。自分が、どんな大間違いをしているか、考えようともなさらないで、よく貴方は、そんなことがおっしゃれるわね。……私には……私には貴方っきりほか、ありはしないわ。何も、ありはしないわ。だからこそ、貴方になんか、相手にもされない苦しみをもするのじゃあないの。

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