ス (冷やかに)愛は、苦しい筈のものではないよ。愛し難い者を愛そうとするからだ。
みさ子 (首を振り)いいえ。いいえ。どれだけ、私が可愛いか、貴方が判って下さらないからよ。
奥平 ――私は、若し強いられたのなら、たとい、事実上過ちがあったとしても、許す。けれども自分から、自分の心も相手の心も翻弄する人間との関係は堪えられない。――苦しめられたくないのだ。――いくら、価値のない人間でも自分の魂の平安を守る位の権利は与えられているだろう。
みさ子 (涙と一緒に奥平の手を揺すり)ああ。貴方は恐ろしい方ね。言葉の裡にある真実を、ちっとも聞こうとはなさらない。ね、どうしたら、私の心がわかるの? どうしたら嘘を云ってはいないのがわかって?
奥平 事実が言葉と合致すれば。
みさ子 だから、さっきから云うじゃあないの? 私は――ああ(激しく泣く)云うのさえいやだわ!
奥平 人間には、言葉以上に微妙な世界があるものだ。まして、異性間の感情には。――あなたは、谷を愛していないと云う。或は、事実だろう。然し、一方に、私は、また、愛している事実も認めずにはいられない。(憤りをはくように)愛します、と誓った愛が嘘になる時もあるように、愛さない、という愛が、却って真実なこともあるのだ!
みさ子 ああ。ああ。こんなに愛しているのに。貴方には! こんなに、可愛いのに!
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みさ子、泣きつつ、子供のように自分の額を、良人の手に擦りつける。
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奥平 (苦々しげに)亢奮が、何の解決になるのだ。……
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みさ子、頭を擡げる。良人を見、絶望でくい入るように、
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みさ子 ああ、貴方は開かない扉《と》よ。叩いても、叩いても開かない扉《と》よ。――私はどうすればいいの?――人間は、言葉でほか、自分の心が表わせない。(烈しい歔欷《すすりなき》。)その言葉を信じられない時。――(蒼白な顔となり)昔の女の人は死にました。私が死ねなかったら――。貴方は、それ見ろ! とおっしゃること?(良人に、じりじりと迫る)それ見ろ! 谷を愛していたのだとおっしゃること?
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奥平の手を掴み、そのまま凝固したように立ち竦む。恐ろしき寂寞。一秒……二秒……さっと 幕。[#「幕。」は地付け]
底本:「宮本百合子全集 第二巻」新
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