に耽っていると、おくめは、自分が今どこにいるかさえも忘れるようになった。
「沢屋、沢屋、沢屋にあれ等の父親がいるのだ」ちらりと一言耳に挾んだだけで、彼女は、この、恐らくあまり大きくない旅館の表構えの様子まで、まざまざと目に浮んで来るような心持がした。
「何をしに東京へ出て来たのだろう――」
 彼女と一緒にいた時分から、彼が東京へ来るのは珍しいことではなかった。昔気質の、律気一遍な祖父の目を盗むようにしては、口実を拵えて東京に来る。そして、何をしているのか、商売の向《むき》は一日二日で済んでも、迎えの手紙が行きそうになるまでは、決して戻って来ようとはしない。――
 東京といえば定って、朝二番の上りで出掛けて行った良人の姿がおくめの心に髣髴《ほうふつ》として甦って来た。近所などでは滅多に見かけない粋《いき》な服装をし、折鞄などを小脇に抱えた後姿を、彼女は、幾度、嫉妬と愛誇《あいこ》とを混ぜ合わせた心持で見送ったことであろう。
 別れてから、十五年になることを思えば、彼も、もうよい年寄になっている筈である。けれども、おくめの思い出すのは、いつも三十五歳の男盛りともいうべき良人の姿であった。ま
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