かけようとした。その時、傍に立っていたのぶ子は、何を思ったのか、いきなり二足三足近よって、殆ど自分の口と水平にある母親の耳の中に、
「阿父さんは、万世橋の沢屋にいるのよ」
と、せわせわしく囁いた。
「さあ、お早く!」
 車掌が、紐を持って急き立てる。
 おくめが、娘の顔を見返す暇もなく、電車はまた上下に揺れながら、広い外壕の通りに沿うて駛《はし》り出してしまったのである。
「あまりいそいだので、のぶ子は我知らず『お父《とっ》さん』と云ってしまったのだろうか」
 二つも三つも乗りてのない停留場を飛して行く電車の、ピリピリ震えるガラス窓に、ぼんやり自分の顔を写し、おくめは「阿父さん、阿父さん」という響ばかりを、全身の内に感じた。心は強く一点に捕われ、彼女は、まるで下駄の下にでも、磁石で自ら方向を覚るように呆然、下谷まで帰って来たのである。

        四

 その夜、おくめは、明方までまんじりともしないで床の上に眼を醒していた。
 奥の部屋はひっそりと寝鎮り、電燈を低く下した彼女の小室ばかりに、厳しい冬の夜気がしんしんと迫って来る。
 深く顎まで夜着に埋り、小さい木枕に頭を横えて思い
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