が、道は丁度大きな屋敷の樹下闇《このしたやみ》で、それと思われる輪廓が、仄白く浮立って見えるばかりである。
 母親が何とも云い出さないうちに、のぶ子は、
「今、こっちなのよ」
と云い足した。
「先月から東京にいるんですって……」
 このことを話すのに、のぶ子は一切相手の姓名を云わなかった。まして、「阿父《おとっ》さん」などという言葉はかりそめにも口に出さなかった。が、おくめには、勿論、すぐに先が誰であるか、推察がついた。昨今、大阪で暮しているということだけは、彼女も、去った良人の唯一の消息として伝聞きながら知っていた。けれども、一旦、縁を切ったからは、恥辱のように思って、彼女は、正確な住所さえ知ろうとはしなかった。便りをしようなどということは、夢にも思わずに、長い間、思い出ばかりを胸に蓄えて来たのである。
「それを、どうしてのぶ子は知っているのだろう」
 流石《さすが》に、おくめは動悸の速まるのを覚えた。
 彼女は暗い足元を拾うように下を見ながら、
「どうしてお前判ったの?」
と訊き返した。
「前にもちょいちょい会ったことがあるんですもの――」
 のぶ子は、優しく弁解するような口調で云
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