彼女の気の立った早口は、若いのぶ子に妙な極り悪さを感じさせたほど、きんきん静かな家中に響き渡った。夕飯だけはしまって行ったらよかろうという米子の言葉を振り切るように、おくめは周章ふためいてやっと往来に出たのである。

        二

 下谷から、麹町まで行く長い電車の間、おくめは、ぽっとして気が弛《ゆる》んだように、はかばかしく口も利かなかった。若々しいのぶ子の傍にすりつくように腰をかけ、濃鼠色の襟巻から、上気《のぼ》せた顔をのぞかせ、彼女は、どこを通っているのか考えても見ない風であった。
「阿母《おっか》さん、ここで乗換えよ」
と娘に注意されなければ、彼女は、乗換場に来ても、場席から立つことさえ知らなかっただろう。
 おくめは、久し振りで姉娘に対面しようとして、歓びとも不安とも分ち難い胸の轟を覚えていた。ともすれば、連関して、忘れたい過去の記憶が甦って来る。外見には、田舎出らしい態度の隙を現しながらちらちら、目路《めじ》を掠める賑やかな燈光のかげに、おくめは、おぼつかなく昔と今とを照し合わせた。
 のぶ子に導かれるのを幸いに、どこをどう曲ったも考えず、相田の小綺麗な格子の前に立たされたのである。
 表通りの薬種の店から、ちょっと入ったその格子戸の内部は、いつもながら、ふさ子の几帳面な性格を表すように、さっぱり掃き浄められていた。
 真新らしい障子がひっそりと閉って、沓脱石には、見馴れぬ男下駄が揃えてある。
 先に立って格子に手をかけたのぶ子を押し止めるように、おくめは、
「お客様じゃないか、若し、何だといけないから」
と囁いた。
「大丈夫よ。私だけ先へ行って見るから」
 のぶ子は、そっと沓脱の端から上って行った。障子をあけ、唐紙の開く音がし、やがて半分も経つと、また、のぶ子が、玄関迄出て来た。
「どうだね?」
 おくめは、眉をあげて小声で訊いた。
「いいんですって。義兄さんのお客様だから」
「…………」
 おくめは、やっと、自分の後で格子をしめた。そして、狭い式台の上で、コートを脱ぎ、襟巻をたたみ、他人の客に行ったように、事変った心持で茶の間の唐紙を開けた。
 ふさ子は、光った銅壺をいけた長火鉢の前に坐って、酒の燗を見ている。斜に向いた薄い膝や、細そりした鼻つきを一目見ると、とっさにおくめは、しみとおるような淋しさを感じた。
 元からのこととはいえ、何故、せめて顔だけでもこっちを向き、笑って自分を迎えてはくれないのだろう。
「――お客様だそうだね」
 おくめは、自分の心持を紛らすように、つぶやきながら坐についた。
「ええ、相変らず長いんでね」
 ふさ子は、
「とめや、とめや」
と女中を呼んで、出来た銚子を運ばせた。
 それから、徐《おもむろ》に向きかわり、
「先ずお変りなくて結構でございました」
と挨拶を始めた。
 おくめは、娘ながら、気圧《けお》されるようで、調子よい返事も出来なかった。
 瑞々《みずみず》しい丸髷に結び、薄すりと化粧して、衣紋を作ったふさ子の姿は、美しいと同量の威圧を与える。
「早くから来たいと思わないではなかったんだけれど……お前も知っている通り、何にしろ田舎者だからね。電車を思っただけでつい面倒になって……」
「そうですともね、時々乗換が違ったりしますもの無理はありませんよ。……でも、この間、海老原のお順さんが来て、阿母さんの消息を訊かれたにはすっかり困ってしまった」
「海老原って、国の?」
「ええ」
 ふさ子は、鉄瓶を重そうに傾けて急須に湯を注《つ》いだ。
「――構わないのにさ!」
「いつでも阿母さんはそうお云いなさるけれども、世の中だもの、そう何でも彼でも構わないさでは済みませんよ」
 海老原というのは、おくめの祖母の弟嫁に当っていた。祖母が後妻で、早く父を失ったおくめに、若いときから今日に至る苦労の種を与えた人であるということから、彼女は、海老原の一家にも好感は抱いていなかった。東京まで来て、また何か云って行ったのだと思うと、おくめは、その話を進める気分にはなれなかった。
「それはそうと、丈一はどうしたえ、もう寝てしまったの?」
 彼女は話題《はなし》を換えた。
「ええ、もう、そろそろ立っちをするのであぶなくってね。ばあやも碌なのは見つからないし……」
「惜しいね、せっかく来て会わないのは。寝顔だけでも見せておくれな」
 おくめは、ふさ子を促すようにして立ちかけた。
「じゃあ……のぶちゃん、お前連れてっておあげ」
 のぶ子に案内されて、客間の外の縁側を廻り、奥の六畳に、すやすや寝息を立てている孫の顔を覗き込んでも、おくめは、どうも心が満たなかった。
 これがただ二人ほかない娘の、やっと人になった一人の家へ来て味う心持だろうか。
 自分は、他人の沢田の家などで、受けようにも受けられない暖
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