黄昏
宮本百合子
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)燈《あかり》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、底本のページと行数)
(例)※[#「てへん+毟」、第4水準2−78−12、257−18]
−−
一
水口の硝子戸が、がらりと開いた。
ぼんやりとして台の前に立ち、燈《あかり》を浴びて煮物をかきまわしていたおくめは、驚いて振向いた。細めに隙《あ》いたところから、白い女の顔らしいものが見える。彼女がその方を見たと判ると、外の顔は前髪を一寸傾け、
「今晩は」
と云いながら、残りの戸を全部明けて姿を現した。
「まあ、何だろう、のぶちゃんかえ」
緊張し、訝しげな色を湛えていたおくめの両眼には、忽ち何とも云えない暖い光が漂った。
「どうしたの? 今頃、学校から来たの?」
おくめは、菜箸《さいばし》を片手に持ったまま、戸口へ下りて行って、懐しそうに娘の風を見た。
「暗がりで誰かと思ったよ」
のぶ子は、華やかな桃色の半襟と、大柄な絣の上下ついの衣服に包まれて、夜目には、我娘ながら見紛うばかり美しく見えた。
「何か用かえ。――まあ一寸お入りな」
おくめは、娘を眺め、夕飯の仕度にかかった台所を見廻し、両方に気兼ねをするような表情を現した。
「直きすむから、上っておいで」
然し、のぶ子は、外に立ったまま、
「ええ」
と云うばかりで入ろうとはしない。
「どうしたの?」
「――阿母《おっか》さん、今夜はいそがしいの?」
「別にいそがしいってことはないけれども、丁度夕御飯にかかったところだからね。――でもいいじゃあないかお上りよ」
「ええ……奥様はいらっしゃるんでしょ?」
のぶ子は、そう云いながら中に入り、母親の鍋をあつかっているところとは一段低い流し元に立った。そして、
「あのね、実はね、阿母さん」
と、声を低め、伏目になって母の手許を見ながら云い始めた。
「麹町まで一寸一緒に来てお貰いしたいんだけれど……」
「麹町へ?」
おくめも、いつの間にか小声になって娘の近くに顔をよせた。
「何かあったのかい?」
「何ってこともないんですけれど――姉さんがね、こっちへ阿母さんが来ているのにちっとも顔出しもしないで、義兄《にい》さんに済まないって怒るんですもの」
「…………」
おくめの、久しく剃刀《かみそり》を当てない眉の辺《あたり》には、明に躊躇の色が漲った。麹町というのは、長女のふさ子の嫁入っているところであった。良人は内務省の小役人をしてい、家では内職かたがた薬局生を置いて薬種屋をしている。そこから、看護婦養成所にいるのぶ子は再々学資の補助を受けているのである。
「この間、行った時にね、こんど来る時は是非連れて来いって云うんでしょ。今月は、少し余分にお金がいったから、姉さんなお喧《やかま》しいんだわ」
「……阿母さんだって行きたいところなら、もう疾《と》うに行っているさ。行けば何の彼のと五月蠅《うるさ》いし……」
「だって、東京へ来て、もう半年にもなるのに、一遍も行かないのはひどくってよ。――今夜は駄目? どうせいつかは行かなけれゃあならないんだから。お暇が貰えたら今日来て下さいよね?」
「お暇の貰えないことはないだろうが……」
母の、行きたくもあり、行きたくもなしという素振《そぶり》を見ると、のぶ子は、充分自分の勝味を感じて熱心に勧め始めた。姉が、どんなに母の不沙汰を良人の手前片身せまく感じているか、一遍母が来て、自分のために口を利いてさえくれれば、同じ出して貰う金も、どんなに快よく貰えるかということなどを、のぶ子は、狭い家の中で、主夫婦に聞えないように、小さく、而も心をこめて話すのである。
のぶ子の寄宿している学校は市ケ谷の方に在った。そこからはるばる下谷まで出かけて来、また麹町まで行こうとする心持を思い遣ると、おくめは、そぞろに可哀そうになって来た。
やっと二十になったばかりの娘が、親の不運なためばかりに、何という苦労をすることだろう。
正直にいえば、おくめは、あまり長女と気が合う方でなかった。不如意の中から片づけられ、充分な教育は勿論、女一通りの遊芸も仕込まれずに、根から東京育ちの相田の家庭に入って、ふさ子が人知れずいかほどの涙をこぼしたか、それはおくめにも、気の毒に察せられた。従って、彼女が、自分を親として、常に引け目を感じていること、ものの判らない女と思わせまいために、身なりのことから口のききようまで、何の彼のと干渉するのも、考えれば一面無理もないことと云えた。然し勝気なおくめには、それが、いつも胸にこたえた。時には、見栄ばかりを気にかける娘が、生れる時、棄てた良人の性格を、そのまま稟《う》けついでい
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