るのではあるまいかとさえ思われることもある。
 おくめが不幸なことばかり立て続けて起った故郷の家を、一先ずしめて不図したことから、まるで他人の沢田の家に手伝うようになったこともふさ子は、雇人などには隠していた。七月の暑い盛り、根岸に来ると間もなく、彼女は、のぶ子を使にして、手紙に、住所などは書いてよこさないように、必要があったら渋谷の親戚にいる積りで万事取計らってくれるようにということなどを、指図してよこしたのであった。
 その時も、おくめは、云い表し難い屈辱を、世間と娘とに感じながら口では平気らしく、
「結構だとも?」
と云った。
「どうせ、姉さんなんぞは私に用のある筈もないからね。私は、これでも、お前に近くなってちょくちょく会えるのが楽しみなんだよ。
 自分さえする気にならなければ、何にも、他人の家の台所なんぞをしないたってよいのだけれども――」
 一つは、来てくれとも云われないのに、行くものかという心持からおくめは、一本の手紙さえ書かずに今日まで過して来たのである。
 けれども、こうやって思いがけない時、のぶ子にすすめられ、懇願されて見ると、おくめの心は動いた。
 行けば面倒とは知りながら、もう足掛二年会わないふさ子の面影、写真で見たばかりの初孫《ういまご》の丈一の姿が、何ともいえない感じを伴って心に迫って来た。
 彼女は冷静に鎮っていた血液が、体の奥から俄に暖かく、どくどくと流れ出したような気持になった。
「行くのもよいが、また、そんな髪をして来たのかって、早速小言を聞かされるだろうね」
 口では、はっきりしたことを云わないでも、おくめは目に見えて急《せ》き立ち始めた。どことなく頬の辺を上気させ、眼をせわしく動かして棚から小鉢などを取り卸す。傍で、のぶ子は、炊事の区切りを待っていた。言葉に出しては気もなさそうに云う母親が、しんではどの位、姉のことも自分のことも心にかけているのが、知らない風を装っても現れる、老人らしい周章《あわて》かたが、彼女には、いじらしく、また憐れに感じられるのである。
 丁度そこへ、境の襖が開《あ》いた。
 母娘《おやこ》が顔を揃えて振向く拍子に、
「どう?」
と云いながら、主婦の米子が出て来た。片手に何か小さい壺蓋物を持ち彼女は何心なく台所の様子を見に来たのに違いなかった。黒っぽいおくめの体の陰に、半ば咲きこぼれたようなにぎやかなのぶ子の姿を見ると、彼女は、
「まあ、貴女が来ていたの」
と他意ない調子で驚を示した。
「さっきから、何だか人の声がすると思ったら――」
嫣々《にこにこ》して母娘を見較べる米子に、おくめは、心持身を開いて娘を引き合わせるようにしながら、
「麹町から用があるとかいって、参りましたものですから……」
と云った。後について、のぶ子はつつましく、
「まことに相すみませんが、一寸お暇がいただけますでしょうか、急な用があるというものでございますから」
と、主意を明かにした。彼女は、母親にだけまかせて置いては、なかなか用向が通らない歯痒《はが》ゆさを覚えたのである。
「まあ、そうこれから直ぐ行くの? 勿論、行ったって構わないけれども、折角、おのぶさんも来たんだから、一緒に御飯をすませて行ったらいいでしょう」
 米子は、年に於ては、のぶ子と幾何《いくら》も違っていなかった。自然、ちょくちょく日曜などに来るのぶ子に対しても彼女は、冷かでない好意を持っていたのである。
「お正月に、ゆっくり遊びに行って来たらいいだろうというのに、おくめさんは、遠慮ばかりしているのだもの」
 彼女は、のぶ子を見て一寸笑った。
「――じゃあ直ぐ仕度をするといいわ、私がお膳立てはしてあげるから」
「そうでございますか?」
 おくめは、始めて亢奮を包みきれない声を出した。
「それでは、真個《まこと》にすみませんが、一寸やっていただきます。直ぐ帰って参りますから。――何だろうか」
 そう定《きま》ると、彼女は、ろくに米子を見てもいられない風で娘の方に向いた。
「着物を着換えて行かなけりゃなるまいか、寒いのに億劫《おっくう》だね。……髪もこんなだし、……まあ、いい。仕様がない」
 おくめは、もう主婦の前などを取繕っている余裕はないらしかった。皿小鉢などを、茶の間に運ぶ米子の傍をすり抜けて、自分の部屋に入ると、後から後からとのぶ子に相談をしかけては、水櫛で鬢《びん》をかきつけ行李の底から外出《よそ》着の羽織や襟巻を出し、手伝うにも勝手が判らないで立っている娘の廻りを、おくめは、四畳半一杯に動き廻った。
 そして、息を弾ませるようにして、せかせかと、古風な下着の襟がちぐはぐに出過た胸元に、黒繻子の帯をしめた。
「おや。ハンケチを見なかったかい。困っちゃうな、滅多に改った風なんかしないもんだから……お前はもうそれでいいの?」
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