かさを、ここで、思う存分楽しみたいと、我知らず待ち望んで来たのではなかったろうか。
 おくめは、思わず、孫の寝顔を見守ったまま、
「姉さんも相変らずだねえ」
と呟《つぶや》いた。
「……気がせわしいもんだから……」
 のぶ子は、自分が連れて来て、あまり歓待もされない母親に気の毒そうに独言した。
 近所から鮨などを取りよせて馳走になっても、おくめは、まだ何かさっぱりしない心持で、おちおち味ってもいられなかった。途中で手間を取ったので、時間は、思いのほか晩《おそ》くなっている。
 銚子が後から後からと数を重ねるばかりで、奥の客も、何時帰るか、見当がつかない。
 おくめは、
「到底、今夜は相田さんにお目にかかって行かれそうもないね」
と、云った。
「あんまり更けないうちに帰らなければなるまいが――お前から、どうぞよろしく云っておくれ、のぶのことも、お世話をかけて真個に相すまないが、もう少しの間だから……」
 やや改って、自分のことが云われると、のぶ子は、母親の傍から、ちらりと姉を偸見《ぬすみみ》ながら、頭を垂れた。
「ええええ、そんなことは一向かまいませんけれどもね。――実はのぶが、あまりずぼらなんでね。今月だって、新らしい本を買うとか寄附だとかいって余分のお金がいったのに、無くたっていい羽織なんか拵える気になるんだから」
 予期したことながら、おくめは、何と弁解しようもなかった。
「こうやって相当に店なんかやっていれば、高が二十円や三十円の金と思うだろうが、決して、どこにも遊んでいる金はないんですよ」
 ふさ子は、次第に、胸の衷《うち》の述懐を洩すような口調になった。
「相田だって、お役所の方がいつどうなるまいものでもなし、いざという時の要心に無理をして店を仕込んで置くようなものだもの……のぶちゃんだって、子供ではなし、ちっとは、自分の身の上も考えればいい」
 おくめは、いやでも、何か、のぶ子のために口添えをしてやらずにはいられない心持になった。
「それはそうだろうとも。人の出入りだけでも容易なものじゃないから――のぶだって、小さい時から相当に苦労をしているのだもの、まさかそれを知らない馬鹿ではあるまい。――真個《ほんと》に、親甲斐なしで……厄介ばかりかけるね」
 ふさ子は、黙って、頭を傾け、眉をよせて簪《かんざし》で髷の根をかいた。
「阿母さんだって、どうにかなりそうなものだのにねえ」
 やがて、ふさ子は、重苦しい四辺《あたり》の雰囲気の裡で、投げ捨てるように呟いた。
「この間、お順さんが来たときにも、そう云っていましたよ。相当な人さえ仲に立てれば、たとい法律ではどう定《きま》ろうと、阿母さんの暮し位のことは、六蔵さんがどうにでもする積りなんだって」
 前後の続きから、おくめには、その言葉がどうしても、家の血統とか相続権とか、喧しいことは云わないで、貰えるものは貰って、のぶ子の学資でも助けたらよいではないか、という風にほかとれなかった。
 訴訟を起したり、弁護士を雇ったりして、柄にない騒ぎをしたことからが、馬鹿馬鹿しいという口吻《くちぶり》を聞くと、おくめは、口惜しさで、かっとするようになった。
 奥へは洩れないように、気を緊めて声を低め、彼女は、
「馬鹿なこと! 誰がそんなことを出来るものか」
と、鋭く娘の言葉を撥《は》ね返した。
「私は筋の立たない金なんぞは、たとい半文も受けたくないと思うからこそ、他人から見れば、しずともいい苦労をして来たのではないか。始め、六蔵を裁判に立たせたのだって、決して、取られた、金を取り返そうためばかりではない、私の云い分と、あっちの遣り口と、公の眼で見ていただいて、どっちが正しいか、それをはっきりさせたいばかりでしたことじゃあないか。ああやって、毎日顔と顔とを見合わせている裏で、あんな企らみがあったかと思えば――おばあさんも憎いが、判るところを判らせない検事にも、私は愛素をつかしてしまった」
 熱して話し、姉妹を見較べたおくめの瞼には、強い火照《ほて》りと一緒に涙が滲《にじ》み上って来た。
「それというのも、皆、お前達のお父さんが、ああだったからのことさ」
 おくめの声には、何ともいえず、寂しい曇がかかって来た。
「お前方のお父《とっ》さんさえ、確かり家を守っていてくれさえしたら、あれもこれも、皆、無くってすんだことなのさ。お前達は、親のおかげで苦労するとお思いだろうが……阿母《おっか》さんだって、……若い時から決して楽をして来たのじゃあないよ」
 ふさ子はうつむいて火鉢の灰をならし、のぶ子は、微《かすか》に涙組み、明るい茶の間の中では、誰一人口を利くものがなくなった。
 おくめは、野州の有名な織屋の後取娘に生れた。彼女は十八の時、ふさ子の良人の父方の親類から、養子を貰った。二人の間は、さほど折
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