てましたよ」
矢崎は、それぎり黙り込み、仕事をしつづけたが、彼の様子を見ると、朝子は、矢崎がそのことについて全然知らぬではないと感じられた。そんなことに無関係な朝子さえ、とっさにそんな事実はあるまいと思えず、漠然疑いを抱く。その程度に、団体内部の空気は清潔でないのであった。
程経て、朝子が廊下を行くと、向うから諸戸が、ひどく急ぎ足にやって来た。朝子はちょっと会釈した。平常なら、二言三言口を利くところを、彼は殆んど朝子をも目に入れなかった風で、角を曲ろうとした。
小使が、草履を鳴らし、それを追った。
「あの、自動車は直ぐ来させましてよろしゅうございますか」
角を曲る急な動作でモウニングの尾を煽《あお》るようにしながら、左手を後へ振り、諸戸は、
「直ぐ! 直ぐだ」
叫ぶように命じた。
その廊下の外に、一本の石榴《ざくろ》の木が生えていた。このような公共建築の空地に生えた木らしくいつも徒花《あだばな》ばかり散らしていた。珍しく、今年は、低い枝にたった一つ実を結んだ。その実は落ちもせず、僅かながら色づいて来た。がらんとした長廊下や、これから相原に会い、買収策でも講じるであろう諸戸の
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