一本の花
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)堤《どて》

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)大きな長|卓子《テーブル》があった。
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        一

 表玄関の受附に、人影がなかった。
 朝子は、下駄箱へ自分の下駄を入れ、廊下を真直に歩き出した。その廊下はただ一条で、つき当りに外の景色が見えた。青草の茂ったこちら側の堤《どて》にある二本の太い桜の間に、水を隔てて古い石垣とその上に生えた松の樹とが歩き進むにつれ朝子の前にくっきりとして来る。草や石垣の上に九月末近い日光が照っているのが非常に秋らしい感じであった。そこから廊下を吹きぬける風がいかにも颯爽としているので、一《ひと》しお日光の中に秋を感じる、そんな気持だ。朝子は右手の、窓にまだ簾《すだれ》を下げてある一室に入った。
 ここも廊下と同じように白けた床の上に、大きな長|卓子《テーブル》があった。書きかけの帯封が積んである場所に人はいず、がらんとした内で、たった一人矢崎が事務を執っていた。丸顔の、小造りな矢崎は、入って来た朝子を見ると別に頭を下げもせず、

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