今日は――早いんですね」
と云った。
「ええ――」
 赤インクの瓶やゴム糊、硯箱、そんなものが置いてある机の上へ袱紗《ふくさ》包みを置き、朝子は立ったまま、
「校正まだよこしませんですか」
と矢崎に訊いた。
「さあ……どうですか、伊田君が受取ってるかも知れませんよ」
 朝子は、ここで、機関雑誌の編輯をしているのであった。
 朝子は、落ついたなかにどこか派手な感じを与える縞の袂の先を帯留に挾んで、埋草に使う切抜きを拵え始めた。
 廊下の遠くから靴音を反響させて、伊田が戻って来た。朝子が来ているのを見て、彼は青年らしい顔を微かにあからめ、
「今日は」
といった。
「校正まだですか」
「来ません」
「使も」
「ええ」
 朝子は、隅にある電話の前へ立ち、印刷所へ催促した。
 再び机へ戻り、朝子は切抜きをつづけ、伊田は、厚く重ねた帯封の紙へ宛名を書き出した。
 これは午後四時までの仕事で、それから後の伊田は、N大学の社会科の学生なのであった。
 黒毛繻子の袋を袖口にはめ、筆記でもするように首を曲げて万年筆を動かしていた伊田は、やがて、
「ああ」
 顔を擡げ、矢崎に向って尋ねた。
「先日断って来た
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