ように、茶色に菊のついた紙で拵えてあったのに違いない。破けては貼り破けては貼り――それは一太も知っている。一太が去年始めて青森から母親と出て来てこの部屋の家に住むようになったとき、一太はまだ廊下や庭のある家で体を動かす癖をもっていた。
 昼寝して寝がえり打つ拍子にウームと、一太は襖を蹴って、足を突込んだ。母親は一太をぶった。一太が胆をつぶした程、
「馬鹿!」
と怒鳴って、糊を一銭買わせた。そして、一番新しいつぎを当てた。
 一太はそのまだ紙の白いところを眺めたり、色の変りかけた新聞の切れなどを読む。
「ブルトーゼ。アルゼン、ブルトーゼ。ヨードブルトーゼ。キナ、ブルトーゼ。グアヤコールブルトーゼ……ブルトーゼって何だろ、おっかちゃん」
「広告さ」
「ああそうか、どうりで人がついてるよ、人がいらあ。……ホイッポ……カゼ……ネツ……モリミョウ。おっかちゃん、ホイッポて何さ」
「しずかにおしよ、おばさんがやかましいよ」
 飽きると一太は起きて、竹格子につかまった。裏が細い道で、一太の家と同じような一棟の家に面していた。一太の窓から見えるところが大工の家で、忠公の棲居《すまい》であった。忠公は、一太のように三畳にじっとしていないでもよいそこの息子であったから、土間の障子を明けっぱなしで遊んでいた。一太が竹格子から見ていると、忠公も軈《やが》て一太を見つける。忠公は腕白者で、いつか、
「一ちゃんとこのおっかあ男だぜ、おかしいの! チッだ!」
と云った。
「違うよ、男じゃありませーんよだ」
「じゃ何故ツメオって云うんだい、オの字のつくのは男だよ」
 一太はぐっとつまって、
「だって女だい!」
と力んだ。
「男だよ。子ってのが女だよ、活動だって、ナミ子が女でタケオが男だよ、やーい見ろ、一ちゃん学校へ行かないから知らないんだ」
 一太は憤慨して涙が出そうになった。学校へ行かないのだって平気であったが忠公にそう云われると口惜しかった。拳固を握りしめて、一太は、
「おっかちゃんにチンポコなんぞなーいよ、イーだ!」
とやりかえした。一太と忠公とは四尺ばかり離れたあっちとこっちで、睨めっこしたり、口の中に両方の小指を突こんでベッカンコをしたりして遊んだ。いい加減遊ぶと忠公はぷいと、
「あばよ、パいよ」
と云って引こむ。
 一太は長いこと長いこと母親の手許を眺めていてから、そっと、
「キャラメル二銭買っとくれよ、おっかちゃん」
とねだった。
「…………」
「ね! 一度っきり、ね?」
「駄目だよ」
「なぜさ――おととい玉子あんだけ売ったんじゃないか」
「またそんなこという! こんな雨が三日も続けばあのお金でやっとこせじゃないか」
 一太は黙り込んだ。一太は金のないという状態の不便さをよく理解していた。金がないと云われれば一太は飯さえ一膳半で我慢しなければならなかった。――
 一太は口淋さを紛すため、舌を丸めて出したり、引こませたり、下目を使って赤くぽっちりと尖った自分の舌の先を見たりし始めた。母親は、縫物の手を休めず、
「ほんとにねえ」
と大きく嘆息したが、
「お父つぁんさえいてくれれば、こうまでひどい境涯にならずにいられたろうにねえ。お前だって人並みに学校へだってやれるんだのに……こうやって母子二人で食べるものを食べずに稼いだところで、この不景気じゃ綿入れ一つ着られやしない」
 一太は困ったのと馴れているのとで別に返事をしなかった。
「私ほど考えれば考えるほど不運な者あありゃしない。親も同胞《きょうだい》もない身で、おまけに思いもよらないこんな貧乏するなんて……本当にお前さえいなけりゃまた身の振り方もあろうが。――一ちゃん。しっかりしてくれなけりゃお母さん、何の望みで生きてるのか分りゃしないじゃないか」
 母親の繰言に合の手を打ってビシャビシャビシャビシャ冷たい雨だれの音が四辺《あたり》に響いている。一太は、ビシャビシャいう雨だれも、母親の怨み言もきらいであった。雨が降れば、きっと根本まで腐りそうなその雨だれの音と、一太によく訳の分らない昔のよかった暮しのことなど聞かされる。ああ、だから一太は雨っぷりが厭だ。けれども、本当にいつか、そんな母親の云うような縮緬《ちりめん》の揃の浴衣で自分が神輿《みこし》を担いだことがあったのかしら。番頭や小僧が大勢いる店と云えば、善どんと小僧とっきりいない米源よりもっと大《でか》い店だろうが、そんな店が自分の家だったのだろうか?
 ぼんやり思い出せぬ思い出を辿る一太の耳に、猶々つづいて母親の声がする。だんだん途切れ途切れになり、急に近く大きく聴えたかと思うと、スーッと微になる。いきなり、
「一ちゃん」
 一太ははっとしてあっちこっち見廻した。
「ちょっとこっちへおいで」
「ほら、一ちゃん、おばさんが何か御用だよ」
 一太は
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