立って境の唐紙をあけた。粗末な長火鉢を前にして坐っている伊藤の細君が、
「さ、お鼻薬」
と、猫板の上に小皿に盛った黒豆を出してくれた。甘く煮た黒豆! 一太は食慾のこもった眼を皿の豆に吸いよせられながら、膝小僧を喰つけて小さくその前に坐った。一太は厳しく云いつけられている通り、
「御馳走さま」
とお礼を云った。母親の頭が唐紙の隙から出た。
「おやまた何か戴いたんですか……済みませんねえ」
 そして、細君に向って愛想笑いしつつ、
「だから御覧なね、外の方じゃないからいいようなもんの、まるでおねだり申したみたいじゃないか」
と一太を叱った。
「あなたもちとお茶でもおあがんなさいよ、こっちで」
「ええ、有難う。本当に親父のいる頃不自由なくしてやってた癖が抜けないでね。本当に困っちゃいますよ」
 一太は、楊枝《ようじ》の先に一粒ずつ黒豆を突さし、沁《し》み沁《じ》み美味さ嬉しさを味いつつ食べ始める。傍で、じろじろ息子を見守りながら、ツメオも茶をよばれた。
 これは雨が何しろ樋をはずれてバシャバシャ落ちる程の降りの日のことだが、それ程でなく、天気が大分怪しい、或は、時々思い出したような雨がかかると云うような日、一太と母親とにはまた別な暮しがあった。稼ぎというのが正しいのだろう。やっぱりその仕事はきっと幾らかの金になったのだから。
 それは訪問であった。玉子売りのときのように知らない家の水口から一太が一人で、
「こんちは」
と訪ねるのではない。母親がそのときは一太の手をひいて玄関から、
「今日は、御免下さい」
と、お客になって行くのであった。一太が一々覚えていない程、その玄関はいろいろで――大きかったり小さかったりで――あったが、その玄関が等しくツメオの小学校時代の友達や先生の家の入口だということは同じであった。ツメオは一太とその玄関から座敷に通された。一太の母は、家にいるときや、普通一太に口を利くときとはまるで違った物云いをした。
「このおばさまは、母さんが一ちゃん位のときからのお友達なのよ」
 初めのうち、一太は驚いてその綺麗な装《なり》をして坐っている女の人を見たものだ。こんな女の人が、一太の始終見るような女の子で、またおっかちゃんもちびな子供で遊んだということが真に不思議であった。一太は極りの悪そうな横坐りをしてニヤニヤ笑った。
「あなたお幾つ? 家の武位かしら!」
「一太、幾つですかって」
「十」
「じゃ一つ違いですね、家のは九つだから。学校は何年? 三年? 四年?」
「…………」
 一太は凝っと大きい母親の眼にみられ正直に、
「学校へ行きません」
と云った。一太は変に悲しい気がするのが常であった。それは一太のその答えを聴くと人が皆、一種異様な表情をするからであった。一太は居心地わるく感じて、訊いた人の顔をみる。訊いた人は一層具合の悪い顔で言葉もなくいる。一太の母はそのとき、
「本当にお恥しくってお話申しあげも出来ないんですよ。震災のときこれの親父に死なれましてからってもの、もう手も足も出なくなっちゃいましてね」
と、徐《おもむ》ろに永い、いつになっても限りのない貧の託《かこ》ち話を始める。帰るとき、一太と母は幾らかの金の包みと、そう古くない運動シャツなどを貰った。
 秋の薄曇った或る日、一太は茶色に塗った長椅子の端に腰かけ、ぼんやり脚をぶらぶらやっていた。一太の傍に母親がいて向うの別な椅子にもう一人よその人がいる。一太と母とは、稼ぎの一つである訪問に来ているのであった。薄暗い部屋の中に、何一つ一太の面白いものはなかった。一太は決して歩いて行ってそれに触るようなことはしなかったが、浅草のおばさんちにあったような鳥の剥製でもあるといいのに! 壁には髭もじゃ爺の写真がかかっているだけだ。
 先刻から、一太の母と主人とは大体こんな会話をしていた。
「私もそうおっしゃられると一言もございませんですが、もうこう堕ちてしまうと、全く今々の心配に追われるばかりで、とても考えを纏めるなんてことは出来なくなってしまうんです。さあ、明日母子二人がどうして命をつないで行こうと思うと、もうボーっとなってしまいますばかりでね。――どうやらこうやら皆さんの御同情にあずかって過して来ておりますような訳で……こんなにして、御縁の浅い先生のところまで上りまして厚かましいのは承知でございます」
「そういう意味で云ったのじゃない。結局のことは当座の端した金ではどうにもならんし、そうやって御子息もあってみれば、何とか法をつけて、安定な生活――已を得ずんば下女奉公か別荘番をしてなり、定った独立の収入のある生活をして、一通りの教育をも与えてやんなさらないと、後悔の及ばないことになってはいかんと思うからです」
「私も、そればかりが心配でございましてね。こうやっているうちに不良
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