一太と母
宮本百合子
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)辛子《からし》
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一太は納豆を売って歩いた。一太は朝電車に乗って池の端あたりまで行った。芸者達が起きる時分で、一太が大きな声で、
「ナットナットー」
と呼んで歩くと、
「ちょいと、納豆やさん」
とよび止められた。格子の中から、赤い襟をかけ白粉をつけた一太より少し位大きい女の子が出て来る、そういうとき、その女の子も黙ってお金を出すし、一太も黙って納豆の藁づとと辛子《からし》を渡す、二人の子供に日がポカポカあたった。
家によって、大人の女が出て来た。
「おやこの納豆やさん、こないだの子だね」
などと云うことがあった。
「お前さん毎日廻って来るの」
「うん大抵」
「家どこ?」
「千住。大橋のあっち側」
「遠いんだねえ。歩いて来るの?」
「いいえ、電車にのって来る」
たまに、
「ちょっとまあ腰でもかけといき、くたびれちゃうわね、まだちっちゃいんだもの」
などと云われることもなくはなかった。そんなとき一太の竹籠にはたった二三本の納豆の藁づとと辛子壺が転っているばかりだ。家にいるのは女ばかりで、長火鉢の前で長煙管《ながぎせる》で煙草をふかしている一太の母位の女や、新聞を畳にひろげて、読みながら髪を梳《す》いている若い女や、何だかごちゃごちゃして賑やかな部屋の様子を一太は珍しそうに見廻った。いろんなものの載っている神棚があり、そこに招き猫があった。
「ヤア、猫がいらあ」
と一太は叫んだ。そして、どこかませた口調で、
「あれ、拵《こしら》えもんですね」
と云った。
「生きてるんだよ」
「嘘!」
「本当さ、今に鳴くから待っといで」
「本当? 本当に鳴くかい? あの猫――嘘だあい」
「ハハハハハ馬鹿だね」
そんな問答をしているうちに、一太は残りの納豆も買って貰った。一太は砂埃りを蹴立てるような元気でまた電車に乗り、家に帰った。一太は空っぽの竹籠を横腹へ押しつけたり、背中に廻してかついだりしつつ、往来を歩いた。どこへ廻しても空の納豆籠はぴょんぴょん弾んで一太の小さい体を突いたりくすぐったりした。一太がゆっくり歩けば籠も静かにした。一太が急ぐと籠もいそぐ。一太が駈けでもしようものなら! 籠はフットボールのようにぽんぽん跳ねて一太にぶつかった。おかしい。面白い。一太は気のむくとおり一人で、駈けたり、ゆっくり歩いたりして往来を行った。
一太は玉子も売りに出た。
玉子のときは母親のツメオが一緒であった。玉子を持って一太が転んだり、値段を間違えたりするといけないからであった。こうと思う家の前へ来ると、ちょっと手前でツメオは一太にしっかり風呂敷包みを持たせた。片方は黄色の風呂敷で、片方は赤い更紗であった。黄色い方には一つ八銭の玉子だけ、赤い方には一つ六銭の玉子が籾《もみ》の中に入っていた。やつれた顔じゅうにただ二つの眼と蒼黒い大きな口だけしかないようなツメオは息子の上に屈んで、
「いいかい。間違えたり、落してわったりしちゃいけないよ」
と囁《ささや》き、一太の背中を門の中に押してやった。母親がそれは小さい声で本気に「さ、いいかい」と云うので、一太は少しこわいようになった。そして、一生懸命な心持で見知らぬ門を入って行った。
暫くして一太が出て来ると、母親が遠くの電信柱のところに立っていて、おいでおいでをした。彼女は勇気がなかったから、自分で玉子を売らず、いつも外で幼い一太が稼いで来るのを待っているのであった。母親を見ると、特別、売れたときなど一太は思わずそっちへ駈け出しそうになった。惶《あわ》てて遠くから母親が盛に顔を顰《しか》め手や首を振って止めた。玉子を持ったら忘れても一太は駈けてはならぬ。
「おっかちゃん! 十も買ってくれたよ」
筒抜けに上機嫌な一太の声を、母親はぎょっとしたようなひそひそ声で、
「そうかい、そりゃお手柄だ」
といそいで揉み消した。
「さあもう一っ稼ぎだ」
また風呂敷包を両手に下げた引かけ帯の見窄《みすぼら》しい母親と並んで、一太は一層商売を心得た風に歩き出す。彼は活溌に左右に眼を配って、若い細君でも出て来そうな家を物色した。一太も母同様、玉子を沢山売りたいと思った。玉子は納豆よりずっと儲《もうけ》があったから、よく売れると帰りに一太は橋詰の支那ソバを奢って貰えた。玉子をどっさり売って出て来るとき何だかいい気持を一太に与えた。一寸背が高くなったような心持だ。
歩くのは天気の好い日に限っていたから、道々一太は種々のものを見た。閑静な午後の屋敷町に大きな石の門があった。犬箱が日向にあって、八ツ手の下に、立ったら一太より勿論大きい斑《まだら》の洋犬が四つ肢を伸して眠っていた。一太は、立派な大人の男みたいな洋犬を綺麗だと思い、こわいと思
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