い、恍惚《うっとり》した。
「おっかちゃん、あんな犬玉子食うかい?」
 母は、横眼で門の中を見たぎり、
「さあどうだか」
と考え考えいった。一太は素足だから、べたべた草履が踵を打つ音をさせながら歩いた。
「ね、おっかちゃん、あんな家却って駄目なんだよ。女中の奴がね、いきなりいりませんて断っちまやがるよ」
 一太が賢そうな声を潜めて母に教えた。そこでは、桜の葉が散っている門内の小砂利の上でお附の女中を対手に水兵服の児が三輪車を乗り廻していた。
 一太は早く大きくなって、玉子も独りで売りに出たいと思った。母親が待っていると、一太は行った先で遊んでいることも出来なかったし、道草も食えなかった。萬世軒の表にいる猿もおちおち見物していられなかった。それに何だか窮屈だ。――母親のツメオが随分永く歩く間余り口をきいてくれず、笑いもしなかったからだ。――全く、母親は笑わない……。仕方がないから、一太は道傍の石ころを蹴飛ばしては追いかけて歩いたが、どうかしてそれが玉子の売れないのとぶつかると、一太は黙って歩いているのが淋しいような心配な気になった。
「ね、おっかちゃん」
「何だよ、ねえねえってさっきから、うるさい!」
 踏切りのこっちへ来ると、一太の朋輩や、米屋の善どんなどがいた。一太一人で納豆籠をぶらくって通ると、誰かが、
「一ちゃんおいで」
と呼んだ。米屋の善どんは眉毛も着物も真白鼠で、働きながら、
「今かえんのかい?」
と訊いた。
「うん」
 一太は立ちどまって、善さんが南京袋をかついで来ては荷車に積むのや、モーターで動いている杵《きね》を眺めた。
「今日はどこだい」
「池の端」
「ふーむ……やっこらせ! と、……洒落《しゃれ》てやがんな、綺麗な姐さんがうんといたろう?」
「ああいたよ」
「チェッ! うまくやってやがらあ」
「なぜさ、善どん、なぜうまくやってやがらあ、なのさ」
「うまくやってやがるから、やってやがるのさ。チェッチェのチェだよ」
 一太は、
「やーい、おかしな善どん」
と囃《はや》し立て、逃げる真似をした。
「なによっ! 生意気な納豆野郎!」
 一太はそれを待っていたのだ。チョロリ、チョロリ、荷車の囲りを駈け廻って善どんに追っかけられた。大人と鬼ごっこするのが一太はどんなに好きで面白かったろう。むんずとした手で捕まりそうになると、一太は本当にはっとし、目をつぶりそうにこわかった。こわいだけなお面白い。母親と歩いていると、そんなに面白い善どんさえ、いつものように言葉をかけてはくれなかった。一太が懐《なつ》っこく、
「善どん」
と声をかけても、
「や」
と云うぎりであった。真面目くさっていた。そして直ぐぶつぶつ、箕をふいて籾選りを仕つづけた。
 それにしても雨降りよりは増しだ。
 雨だと一太は納豆売りに出なかった。学校へ行かない一太は一日家に凝っとしていなければならないが、毎日野天にいることが多い一太にとってそれは実に退屈だった。一太の家は、千住から小菅の方へ行く街道沿いで、繩暖簾《なわのれん》の飯屋の横丁を入った処にあった。その横丁は雨っぷりのとき、番傘を真直さしては入れない程狭かった。奥に、トタン屋根の長屋が五棟並んでいて一太のは三列目の一番端れであった。どの家だってごく狭いのだが、一太母子は一層狭い場所に暮した。
「お前んち、どこ?」
と訊かれると、一太は、
「潮田さんちの隣だよ」
と躊躇《ちゅうちょ》せず答えた。が、それは家ではない、ただ部屋と云う方が正しかった。つまり、一太の母子は、長屋の一軒を自分で借りているのでなく、他人が借りて主人でいる、その唯二間の中の一部屋を更に借りて暮しているのだ。六畳が長屋の往来に向ってある。そこに伊藤のおじさん、おばさんが暮していた。次の三畳が一太の家であった。雨が降ると、だから一太はその三畳に母親とおとなしくしていなければならぬ都合であった。三畳は、大人の女一人が仕事でもして坐っているにはよいが、一太の往来を駈けずり廻る手脚にはお話にならず狭かった。一太一人ではない、母親が賃仕事をしている。一太は坐って隣室との境の唐紙にぶつかると叱られるから、大抵寝転った。頭を母の方に向け、両脚を、竹格子の窓に突出した。屋根がトタンだから、風が吹いて雨が靡《なび》くとバラバラ、小豆を撒くような音がした。さもなければザッ、ザッ、気味悪くひどい雨音がする。一太は、小学校へ一年行ったぎりで仮名も碌《ろく》に知らなかった。雑誌などなかったから、一太は寝転んだまま、小声で唐紙を読んだ。さっきも云った隣との区切りの唐紙が、普通の襖紙で貼ってなく、新聞の附録の古くさい美人画や新聞や、そこらに落こちていた雑誌の屑のようなもので貼られていた。幾年か昔、この長屋が始めて建ったときには、そこだってきっとおばさん達のいる方の
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