るといえると思います。民主的出版の確立のために、用紙の適正な配給を監視するという仕事は、反動文化との闘いの最も根本的な必要だと思います。
『新日本文学』の発行が用紙問題で定期的にゆかないということは、新日本文学会全体の活動に、重大なマイナスとなっていることは、皆さま、御覧になるとおりです。たとえば、徳永直さんの「妻よ眠れ」という小説は、『新日本文学』創刊号からのせられはじめまして、本年前半期において、一般から注目される価値を示した作品でした。徳永さんの御都合で中絶した面もあるでしょうが、ともかくそれは中断されたままになりましたし、だいたい、評論にしろ、どうしても、どっしりと百枚二百枚というものをのせきることができません。薄い一冊の雑誌に、そうとう変化も与え、文学の各方面の話題にもふれようと苦心されているために、比較的あれやこれやを、少しずつという工合になります。これは営利雑誌ならともかく、どんなに幅がひろかろうともともかく一貫して民主主義文学の主流をなしてゆこうとする運動の機関誌としては、じつに感銘力をそがれます。紙面がないから、新日本文学会に集っていられるあらゆる文学者たちの、あらゆる能力をいっぱいに盛って出して、その見事なながめで、日本に新しい民主主義文学への情熱をめざましてゆくという効果は急に期待できません。
私たちは、こういう困難の意味を、はっきり理解して、根気づよく押してゆかなければならないと思います。『新日本文学』が苦しいのは闇をやる手腕がないから、という角度からだけ問題にされるべきでないと思うのです。この雑誌がめぐりあっている困難は、日本の民主主義そのものが陰に陽に当面している困難であり、今日の支配者たちは、この困難のあることで迷惑していない。私たちは、そこの意味をよく知って、ねばらなければならないのではないでしょうか。
『新日本文学』は創刊号から第三号まで各号、民主主義文学運動のための諸問題を、いろいろな角度から扱っていますが、その執筆者たちは、小説の作者同様、だいたい、既成の人々でした。若い評論家・作家にしろ、みんなそれぞれ一人前に活躍してきている人々が執筆しています。
ところが、最近出た第四号を、みなさまはどんな心持で御覧になりましたろう。表紙がかわって、ミケランジェロまがいのような裸の男のついた大して見事でもない表紙になりましたが、内容は、この第四号になって、はじめて『新日本文学』が発行されている甲斐があらわれたようにうれしい気がしました。中野重治の「批評の人間性」という論文のほか、平田次三郎「島木健作論」、北鬼助「平林たい子論」、中川隆一「丹羽文雄論」などがのりました。三つの論文はけっしてながいものではありません。また、堂々たる大評論でもないけれど、この三つの論文を『新日本文学』がのせることのできたよろこびは、真実のこもった、ふかいものです。率直な感想をゆるしていただきますが、たとえば『新日本文学』三号までにのったような評論は、指導的な意味をもったものもあり、さもなければ各人各様がおもしろいところなのかもしれないけれども、民主主義文学の諸問題の各面をそれぞれに担当して、ずっとよんで綜合してみれば、なるほど、民主主義文学の発展のためには、これこれの問題があると、しっくり会得できるというふうな意味での客観的な多面性又啓蒙性を示したものではありませんでした。小田切さんは小田切さんでいいたい話題を、佐々木さんは佐々木さんでいいたい点を、そして、岩上順一さんや除村吉太郎氏はまた氏としての話題の運びかたです。今日新しく民主主義社会への展望とともに自身の文化建設の課題として文学をとりあげはじめた人々には、三つを順ぐりよんでいっても一括してまとまった判断をうけとりにくく、文学の美しさで鼓舞されるという感動もうけられなかったろうと思います。小田切さん、佐々木さんなどの論文は、御本人たちとして、自分の云いたいことを云いたいように云っていらっしゃる。云いたいことを云いたいところからめいめい云う、つまり、主題の歴史的な究明や展開なしに読者の理解を眼目におかずそれを書く自分の熱意にだけしたがって書いてゆく、それが民主主義的な文学運動であるかのようです。ところが、民主主義文学運動というのは、云いたいことを云いたいところから云いたいように云うというような素朴なものではないんです。民主主義文学の諸問題、諸探求、それは、書く人のさまざまの個性的ニュアンスで変化をもち多様化しつつ、けっして単なる主観的発言ではなく、民主主義文学というものがこの歴史の中でもっている客観的な本質に即して必然とされる客観的な諸特質が研究され、綜合され、私たちにとって共通な文学の成果としてもたらされてこなくてはならないものです。
第四号に作家論を書いている三人の新しい評論家たちは、もとより自分の書きたいと思う作家を自由に研究題目としているのですが、注目されることは、このつつましい試作三つともが、作家論というものはどういう方法によるのが最もその作家の真実に肉迫しうるものかということを、地味に、客観的に、社会的に、文学的に究明しようとしている態度です。自分はこういうんだ、というふうの古い個人的押し出しが匂っていないところが、新鮮なのです。そして、この新鮮さというものは、執筆者たちが未だ未熟者で、個性を確立させていないから、自分について臆病であるから、個人の匂いが鼻につかないというのでしょうか。まったくちがいます。この人々の持っている小さいがまとも[#「まとも」に傍点]な新鮮さは、もうこの人々の生活感情、文学感情は、古い意味での自分が[#「自分が」に傍点]、自分が[#「自分が」に傍点]の主張から拡大されていて、一つの作家論によって自分のもち味を展開してみせる興味よりもっと成長している、という文学の新しい線を示しています。一人の作家をとらえて、それを社会進歩の歴史の方向に立ちつつ、客観的に究明してゆく、その熱意とよろこびのうちに、自身を究明し、自身を発展させてゆこうとする心持が示されています。だから、三つのうち、一つでもよくいわれる「特異な才能」が示されているでしょうか。ジャーナリズムがすぐ買いにくるような意味での特異な才能は一つも示されていません。しかし、民主的な文学なら、必ずそこを基盤としなければならない民衆の健やかで平明で条理のとおった現実的判断が、この試作の基調となっています。読んで、アクのつよい、いやな後味は一つもなかったでしょう? 小さいけれども、まともなものです。『新日本文学』は第四号で、やっと、こういうふうに、かたよった文学人の文学でないもの、あたりまえの社会的人間の情理に立った文学への声を包括しはじめました。こういうふうに行かなくては、『新日本文学』の出る意味がないのです。
『真・善・美』という雑誌の九月号に「小林秀雄氏へ」という公開状を書いた小原元という人は、『新日本文学』に試作を発表した三人のかたよりは、ずっと既成文学のいきさつに通じ、その語彙をうけついでいますが、やっぱり一つの新しい力、新しい存在感の上に立っている方のように思えます。小林秀雄というような評論家は、こういう若い世代の感覚でしか批判しきれないでしょう。
またこの四号には、小沢清という人の「町工場」という小説がのりました。徳永さんの推薦で、推薦者は、この作品のよい点とともにおさなさをいっていられます。なるほど、おさない、といえるところはあるかもしれないけれども、それは現実を見る眼、現実を感じる心の粗雑さを意味しているでしょうか。私はそう思いません。町工場につとめる若い勤労者としての主人公をとおして作者が社会を感じている人間としての感覚は、けっして荒っぽくありません。ひとりよがりの幼稚さももっていません。こまやかで苦労を知っていて、しかも卑屈でありません。「町工場」を読んだ人は、誰でもこの作品のさっぱりとして、しかも人間らしいつよさにこころよく感銘されるのですが、この小説も『新日本文学』の収穫として、まじめに検討し、この作者の勤労者として、そして小説を書く人としての大成を期待しなければならないと思います。
この「町工場」の小説としての価値は、私という主人公が勤労生活のうちにあるさまざまの半封建的な、搾取的な細部を感じつつ生きてゆくそのことを、いわゆる、進歩的勤労者の自覚した認識というような観念にてらして描きださず、生きてゆく細目そのもので描きだしているという点です。ひと昔前の勤労者作家には、こういう腰のすわりがなかったと思います。身辺現実を整理するに、なにか道具がいりました。イデオロギーとか社会史観とか、こき出されたそういうものがいった。そういう整理道具なしに日常現実に体ごとはまったまま、それを作品化してゆくだけの力がなかった。足をとられるから、つかまるものがいりました。インテリゲンツィアの場合でみれば、野間宏の「暗い絵」の話のとき、有島武郎や芥川龍之介の文学にふれました、あのとおりです。実感の中にとけて入って、それが社会科学の本はどう書かれているかということにかかわらず、生活と文学そのものの中から、実感をつきつめて、自然、勤労者として正当な、したがって人間らしいテーマの発展を辿っている。
ここが、じつに着目されなくてはならないところです。世界観と実感と二つを対立させて、モティーヴの切実さが世界観などからは出ない、という論議もあったりしているとき、文学の現実で、この「町工場」なんかは、もうその問題をある意味でとび越えた、若いすがすがしい世代が擡頭しかかっていることを実証しているんです。つまり、勤労者として生き、社会に学び、この作者ぐらい現実の解明力としての勉学の意味も理解していると、いつか、モティーヴそのものの社会性が深まりひろがって、たとえば「町工場」で描かれているような「貧困」そのものにたいしてもおのずから私という主人公と音川という男と二様の勤労者の態度の生れることがつかめ、音川のそれを遺憾とする精神の実感にまでつきぬけてくるのです。
この「町工場」の内容的な特徴は、徳永さんもふれているとおり文体の上にくっきり出てきてもいます。この文体には一種の気品があります。なぜでしょう。こしらえた気取りは一つもないが、描こうとする一つ一つの対象にたいして、作者の内面的全構成が統一をもってまともにとりくみ、深められるだけ深くひろく考え、眺め、皮相的に反映するのではなく、自分をとおして文学の現実として再現しようとしているから文章に気品を生じています。理性のあかるさからの気品です。昔プロレタリア文学の初期、勤労者の文学といえば、精力あまった荒削り、俺ら働くもの式の力み、ある低さくらさがつきものでした。推薦者徳永さんの前書に、「私は二十年前の若い労働者作家として感慨をもって思いくらべながら、現代の青年労働者作家を読者の前に紹介する」といわれています。ここのところを、もっともっと、客観的に、民主主義文学の問題として説明していただきたかったと思います。「町工場」は小さい作品だし、これから大きい題材とテーマをこなしてゆくには幾多の苦労と修練とがいることは明白だけれども、これが新しい勤労者作家のけっしてわるくない見本であることも事実です。志賀直哉の文体は、日本ブルジョア・リアリズムの終点でした。志賀直哉風の描写のうしろにねてはいられないといって、高見順その他の人々があれこれディフォーメーションを試みましたが、それは現実理解のディフォーメーションを結果したばかりであったことがますますはっきりしてきている今、文学におけるリアリズムは、こういう、せせらぎのようなよごれない姿で、新しくなって、目にもたたないところから流れはじめてきています。
『新日本文学』は、民主主義文学運動を担当するものの責任として、こういうふうな勤労生活からまっすぐ芸術に結びついて、中途を文学青年的よごれにそまない作家をもり立てなければならないと思います。農民そして、じかに画家。工場労働者からじかに作家。民主的革命家そ
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