一九四六年の文壇
――新日本文学会における一般報告――
宮本百合子
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)慙愧《ざんき》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)自己|剔抉《てっけつ》ということも
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「革+(韜−韋)」、第4水準2−92−8]晦《とうかい》
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序
昨年十月から今年の十月まで一年が経ちました。その間にはずいぶんいろいろのことがございました。昨年の八月以後、私どもが新しい人間性の確立と民主的な社会生活の確立、それに応じた文学の方向の確立とを求めて動きだした当時から今日までの経過の中には、はじめのころ私どもの、単純かもしれなかったけれども初々しい希望に満ちた心持が、さまざまの関係のうちに変化をうけてきてもいるわけです。一般情勢の変化といわれるわけですが、その移り変りのうちにも一年のはじめの四分の一、つまり一月から三月くらいまでと、それから今日にいたるまでの間には非常に変化が現れました。その根本は日本の民主化の課題が、現実にどう進展しつつあるかということと、きっちり結ばれているわけです。先ほど中野重治さんが「反動文学との闘争」に関する報告の中で、たいへんわかりよく概括していられたように、日本の民主化はけっしてすらすら行われておりません。良心的に行われていません。正直にも行われていません。政府は自身の権力を保持したいために、私ども日本人すべてが持っている新しいいろいろの可能性へのきりかえを、非常に嫌っています。それはこんどの憲法を見てもよくわかることですけれども、ああいう「主権在民」の中途はんぱな扱いかたは、私どもが民主を求めて生きている感情に直接影響してきています。
民主主義憲法といいながら、政府は五月一日にそれが実効を発生することを避けました。しかも、今年の五月一日は私たちすべてにとってどういう日であったでしょう。あの日に私どもが感じた感情というものこそ、今日日本の民主的な動きかたの感情のある一つのはっきりした現れであったということが認められます。それだのに政府は五月一日に実効を発するのは嫌だと、十一月三日に発布しました。(十一月三日は、明治以来天皇制支配の一つの記念日です)主催在民の民主憲法を五月一日の世界のメーデーからわずか二日だけおくらして五月三日に実効を発せしめなければいやだという、その感情、そのものが今日の支配者、権力者が感じている民主主義というものへの考えかたをじつに適切に表現しています。なぜメーデーと一致してはいけないのでしょう。
こういう日本の民主化の過程にあらわれている変な歪み、それが文学の面においても反映しています。民主的文学確立の過程は、非常に錯雑しており困難しております。日本において民主化の諸問題が歪むのには、すこぶる深刻な後進的、半封建的条件が作用しているわけですが、それがまたある場合には外部的な力と結合されて、いっそう複雑になって来ました。ほかの国に資本主義が存在している以上、たとえ民主主義の確立している資本主義国においてさえも、今日ではさらにその民主主義を高め発展させなければならない矛盾と困難とが加わっております。
発達した資本主義的民主主義の国でも、その発展の矛盾の一つのモメントとして、前進性をもたない部分を生じてきているのは自然であり、その影響が、日本のさらによりおくれた部分と結びつくことも想像しやすいことです。
こういう急速な推移の中で、文学は一年間生活をしてきたわけです。私たちは新しい文学の中につよくヒューマニズムを求めています。民主的文学を求めています。私どもはそれを心から求めている。が、それらは私どもの希望するような創造活動として現れているかといえば、けっして、単純に肯定しかねる実際だと思います。混沌と、混乱が目立っていると思います。
今日の文学とジャーナリズム
文学は新しく出発してゆこうとしているのですが、さてその物質の基礎はどういう新しい条件をもっているでしょうか。
実際において、今日の文学は、やっぱりジャーナリズムの上に立っていることは否定されません。そのジャーナリズムは、民主的要素を加えてきたのは確かですが、本質において資本主義のジャーナリズムであり営業として利潤を求めているものです。現在日本には文芸雑誌だけでさえ三百余種の雑誌が出ているそうです。中にはそうとう大きい同人雑誌も少くありません。中でも特徴的な出版は鎌倉文庫の出版であります。ヨーロッパ文学の歴史の中でも経済力のある作家たちが集って、自分たちの出版雑誌社をもったことはたびたびあります。しかしその場合ほとんどすべてが商業主義の出版と、営利的なジャーナリズムにたいして、文学・芸術の独自性を守ろうとしたことが動機です。アメリカやアイルランドの小劇場は興業資本にたいして、金儲け専一でないほんとうの劇場、ほんとうの演劇をもちたいという希望をもつ人々によって創られたものでした。出版事業にひきずられっぱなしでない出版をして、たとえば、ヴァージニア・ウルフ夫妻が中心でこしらえていたような出版社をこしらえていたこともあります。ところが日本の今日は、その点、非常に注目すべき現象を持っています。たとえば鎌倉文庫は出版インフレ時代に経済的ゆとりをもつようになった作家たちが集って、財産税だの新円の問題に処してつくられた株式会社のように見えます。営利ジャーナリズムとして存在しつつ、作品発表の場面も確保してゆく。利潤の循環が行われる仕組です。出版会社、鎌倉文庫は『人間』『婦人文庫』その他『社会』までを出しています。『社会』第二号の口絵にのせられた貝谷八百子のヴァレー姿の写真を人々はなんと見るでしょう。こういう写真をのせる『社会』を出している会社を川端康成その他がつくっているということについて、感じるおどろきはないでしょうか。
ある種の文学者たち自身が営利的ジャーナリズムに関与しはじめたということのほか、今日どういうやりくりをしてか三百余種の文芸雑誌があるということを思えば『新日本文学』が紙のないためにあんな薄っぺらなものを間遠にしか出しえない事実は、私どもを深く考えさせます。日本の民衆が持っているはずの言論の自由・出版の自由ということは、はたしてどのように実現しているでしょう。民主的出版は芽生えのうちに、用紙のおそろしい闇におしつぶされかけています。日本出版協会の用紙割当は闇紙への権利確認のような実状に陥っていて、政府はさらにその用紙割当を自分の掌の下でやろうとしています。
出版面における戦犯出版社の問題も不徹底に終りました。彼らのこしらえた自由出版協会に参加している戦犯的な出版社はむしろ用紙割当の上位をしめているありさまです。
文学作品との直接のつながりから見ますと、今年の一月ころから三月ころまでの間最初の四半期は、さっきちょっと触れたように、民主主義が初々しく、ややまじめにあつかわれた時で、まだそこにどんなはみだしや歪みが出てくるのかわからないから用心ぶかくやってみるという足さぐりの時代だったわけです。
この足さぐりの時期には、戦争遂行に協力した作家たちは作品発表をせず、ジャーナリズム自身の存在安定のためにも、執筆依頼はひかえておくという工合でした。永井荷風がある時期にあのような作品を続々と発表したということには、日本の現代文学の深い悲劇があります。荷風は、明治四十年代にフランスへ行き、当時のフランス文芸思潮の中で、デカダンスは、フランスの卑俗な小市民的人生観にたいして反抗する精神の一表現であるということを見てきました。自分もそういう意味でのデカダニズム、反抗精神の一つの現れとしてデカダニズムを近代人たる自分も持つつもりでいました。ところが、日本へ帰ってみると、日本の半封建の精神とフランスの近代性、フランスのデカダニズムの社会的精神的必然との間に非常な歴史的地盤の相違があって、永井荷風は、自分の見いだそうとした精神のよりどころを、当時の日本の社会対自身のうちに見いだせなかった。封建的な日本と闘ってゆくその自由さえ、デカダニズムをもって抗すべき近代小市民生活の自主性さえ、日本には確立していない。その結果荷風は、ヨーロッパふうな社会的なものの考えかたは放擲して、自身の有産的境地のゆるす範囲に※[#「革+(韜−韋)」、第4水準2−92−8]晦《とうかい》して、好色的文学に入ってしまった作家です。社会に発現するあらゆる事象を、骨の髄までみて、そこに出てくる膿までもたじろがずに見きわめる意味でのデカダニズムからははるかに遠くなってしまった。年齢と経済力とに守られて、若い幾多の才能を殺した戦争の恐怖からある程度遠のいて暮せたこの作家が、それらの恐怖、それらの惨禍、それらの窮乏にかかわりない世界で、かかわりない人生断面をとり扱った作品が、ともかく日本で治安維持法が解かれた直後のジャーナリズムを独占した、ということは私どもにとって忘れることのできない現実だと思います。
志賀直哉の「灰色の月」、佐藤春夫の作品なども同じようにはじめの四半期に現れました。が、これらの作家の作品は、私どもの文学世代がすでにその人々の足の下からはるかに遠く前進してしまっていることを痛感させたと思います。
三月から後、いわゆる働きざかりの中堅作家がジャーナリズムの上に出てきました。これらの作家がカムバックしたといわれています。「カムバック」というのはどういうことなのでしょう。
いままでジャーナリズムの上に作品を発表しなかった人々が書きはじめた、ということをカムバックといわれているようです。しかし、私どもが文学の問題として研究したいのは、これらの作家が、ただジャーナリズムにおいて執筆依頼をうけるもののリストの中にカムバックしたものか、それとも、文学そのものにおいて再出発する可能を示したという意味でのカムバックであるのかという点です。全部が全部ジャーナリズムの上へカムバックしただけだということは大ざっぱすぎる表現でしょう。しかし、非常に大きい割合で、ジャーナリスティックにカムバックしただけの作家が目立ちます。
その理由の一つは、ブルジョア・ジャーナリズムの「商売」の必要ということです。一定の紙面をふさぎ、よませなければならないのに読ませるものがない。新登場をもって賑わす新人がいません。しようがない。そのうち文化上の戦争責任追及もうやむやになったし、日本の保守傾向の存在できる幅のひろさも見えはじめたことから、頼んでいる人自身が尊敬もしていない、けれどなにしろ読む人がいるのだから、と書かせる。そういうことでジャーナリズムに作家たちがずるずるとカムバックしました。
ある一つの綜合雑誌の目次を見たら、論説に羽仁五郎、細川嘉六、信夫清三郎、平野義太郎という人々が並んでいるのです。その同じ雑誌にどういう小説家が並んでいるかといえば、永井龍男その他丹羽文雄という工合です。今日の文学が評論界、思想界との間に相当のギャップを持っていることがはっきり見えているわけです。こういうふうにして既成作家のカムバックということにしても文学的カムバックが比較的少なくて、ジャーナリスティックなカムバックが主流をなしているその事実は、さきにふれたように日本の民主主義の今日における一つの特色ある様相です。作家自身としての問題、文学の問題としてみれば、それは結局、先ほど戦争犯罪と文学について中野重治が批判していたように、私どもが自分の心の中に自分の発展方向として、戦争時代に文学者としての自分の生きてきた生きかたをほんとうに突きつめてみるということが、まだ十分にやられていないということです。その重要な発展のモメントを、文学的に、浅薄器用にあつかって、お茶を濁している傾きがあります。
阿部知二は南方経験を作品に書きました。「死の花」という作品が『世界
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