』に出ていましたが、作者が目撃したその土地の人の蒙った残酷な運命、やがて非合理に殺されてしまうことを書いています。その作品で作者は、主人公たる自身がそれらの実状を目撃する立場にあるという、その深い事実についてなんと感じたかという小説の大切な最も小説らしい部分で、けっしてやぼに苦しんだりしていません。「この俺がこんな所にいるなんて! なんてことだ!」などとは書いていません。偶然持ってきた聖書に「われを求めざりしものに問い求められ、われをたずねざりしものに見いだされ、わが名を呼ばざりし国に」というところでハタと本を閉じた、と書いています。それで、主人公が心ならずも置かれている場所ということを現わしているつもりです。
作者は、わが名を呼ばざりし国に自分はよこされている、つまり自分はこういうゴタゴタや残酷の中に関係していることは自分の希望ではないのだということを言外にほのめかしているのです。文学の問題としてみた場合、こういうテーマの扱いかたはきわめて浅薄です。
丹羽文雄は報道班員として行った特攻隊基地の実際の腐敗を、自分の内面生活にかかわりなくつきはなし、それとして描写して、作品としては読ますが、それ以上、文学的人間的感動をもっていない安易な態度があります。もうちょっと気がきいたような作家は、自分が、疎開している田舎で文化的な要求を持っている国民学校の先生が逢いにきていろいろの話をしてゆく。その国民学校の先生はリベラリストで、戦争の見とおしについて懐疑的な批判を持っている人です。そういう対話を主人公との間に交します。当時あのように禁じられていた話題をとりあげる以上は、主人公がリベラリストであるという裏書をその国民学校の先生の話によって与えさせている。手のこんだアリバイの示しかたです。
ここに「北岸部隊」というものを書いた一人の作家があります。農村から、工場から、勤口から、学校から兵隊にされていっている人たちが、人間らしく悲しみ、人間らしく無邪気に歓び、死にさらされているありさまを目撃して、それを人々に伝えたい、という意企で書かれたものかもしれません。「北岸部隊」はそのもう何年か前に作者に印税を与えていまは人目にふれなくなっているものです。しかし、このごろ東京裁判で、私たちが知らされていることはどうでしょう。「北岸部隊」の兵士たちは、彼らが一人一人であったらしなかった非人間な惨虐を行い、あるいは行わせられたことを知りました。これは私たちすべてにとって心からのおどろきであり苦痛です。
だいたい芸術家というものは現実を綜合的に感じとる能力をもっているはずだと思います。人間としての良心、芸術家としての良心に立って書いたと思っていたものが、すぐその作品の後で信じがたいくらい暴虐なことが行われていたことがわかったとき、「北岸部隊」の作者は兵隊たちと、自分と、一般民衆に加えられた欺瞞と侮蔑にきびしく心をめざまされ、現実をそんなにいいかげんにしか扱えなかったことに作家としての自身をむちうたれ、悲しみと憤りにたえがたいところがあろうと思います。作家としての目の皮相さについて、慙愧《ざんき》に耐えないのが本当です。自分としての動機が純であればあるほど、この打撃は痛切なはずです。そこにこそ、その作家にとって昨日はなかった今日および明日の芸術のテーマが与えられているわけです。作家として意欲するにたりるモティーヴがあるわけです。そして、このテーマこそ、日本民衆の心の底からともに鳴ることのできるものではないでしょうか。今日、その作家が、忠実にその点をとらえて新しい自分の文学の一歩を前進させたならば、それこそ日本文学の問題として意味あるカムバックです。三月ころから後いわゆるカムバックした中堅作家のほとんど全部がジャーナリズムの安易さによって活動しはじめて、自身にとっての真の文学的発展のモメントは、かえってイージーに流してしまっている点は、こんご新しい文学の発展について語るについても、けっして無関係ではありえない点と思います。
交錯する諸傾向
ジャーナリズムの上にこのようにして再登場してきた既成諸作家一人一人の傾向はたがいに錯雑しています。戦前のようではなく、戦争中のままではもとよりなく、さりとて、ほんとうに民主的になろうとし、旧套から脱して人間らしい人間に立ち上ろうとする意欲と力に満ちているというのでもない。
舟橋聖一の「毒」に示された一種の露悪的な文学の傾向があります。石坂洋次郎、丹羽文雄などもその傾向の作品を示しています。舟橋聖一、丹羽文雄などという作家は、そのときはこういう時代だったんだ、という態度でつきはなして、露悪的に戦時の現実を見て描いているのが特徴です。作家としての自己の人間的探究とか、一定の環境において人間・作家として感じる責任という点は抹殺して、主人公の卑劣さ、劣等ささえ、外部の力のせいであるという他力本願の扱いかたです。これは、過去の文学において、個人の確立がされていなかったことのいっそう複雑にされた反映ではないでしょうか。
芸術というものはいつも自分からぬけ出てゆこうとするもの――自己の発展を求めるものとしてあるべきだと思います。悪循環の下に居直ったように、俺が悪いんじゃない、あの時はあれでしようがなかったのだ、というような人生態度は芸術的に人間的に低俗で、長いものにはまかれろ式なものであり、近代文学の本質的な意欲のないものと思います。
一方にはまた、戦争中べつにいきり立ちもしなかったけれども、社会生活と個人の身の上におこる起伏を歴史的現実としてはっきり把握せず、ただ自然主義風に、世の移り変りとして見ている態度の作家と作品があります。宇野浩二の「浮沈」などを代表として。
さらに昨今の特徴として目立つ傾向はデカダニズム、またはエロティシズムです。織田作之助、舟橋聖一、北原武夫、坂口安吾その他の人々の作品があります。
個々の作家についてみればそれぞれ異った作風、デカダンスの解釈とエロティシズムへの態度があるけれども、総体としてみて、今日、新しい人間性の確立がいわれている中で、デカダンス、エロティシズムの文学が流行していることについては注目の必要があると思います。
日本文学におけるデカダニズム、エロティシズムは、悲劇的な系譜をもっているといえないでしょうか。ヨーロッパの近代文学におけるデカダンス、エロティシズムは、つねに、小市民的町人的モラルにたいする反抗として現われました。日本の近代文学におけるデカダンスやエロティシズムは、封建的な形式的道義・習俗にたいする人間性の叛乱としてあらわれたものでした。古い例でいえば、徳川末期の武家権力の崩壊期に、経済的実力をもってきた町人階級が、士農工商の封建身分制にたいする反抗として遊里という治外法権地域をつくり、馬琴の文学にたいして、京伝らの文学をもった場合にもこのことが見られました。町人文学と劇、浮世絵は、封建の身分制から政治的に解放され得なかった人間性が、金の前には身分なしの人身売買の世界で悲しくも主張されたわけでした。婦女奴隷の上に悲しくも粉飾された町人の自由と人間性との表示でした。
明治四十年代の荷風のデカダニズムはさきにふれたように、正面から日本の歴史的軛に抗議することを断念した性格のものであったし、大正年代に現われた谷崎潤一郎などのネオ・ロマンティシズムの要素も、同時代に擡頭した武者小路実篤のヒューマニズムと等しく、幸徳秋水事件の反動として、社会的な人間性の解放を問題とせず、自分たちの生きている社会の歴史的現実から飛躍した一般人間性尊重とその主観的な表現としての官能への沈湎でした。一九三三年プロレタリア文学運動が圧殺されて後、反ファシズムの運動として世界におこった人民戦線の活動が日本に伝えられたとき、治安維持法の脅威によって、日本における人民戦線の紹介者は、極力、「社会性を問題としない」人民戦線にとどめようとしました。ファシズムというものが、一つの組織された政治的圧力であるのに、それに抗すべき人民戦線が一般ヒューマニズム擁護というモットウにだけ解消されて、民主的な社会的政治的本質を抹殺して、一つの勢力として存在しえないことは自明です。日本における野蛮な抑圧は、人民戦線を無社会性のものと不具化し、その結果ヒューマニズム論議も不徹底となって能動精神の主張となり、それらの主張から生れた作品は「若い人」のような無目的で素朴な生活力の氾濫の描出に終りました。プロレタリア文学が、主張した人間性の解放は、社会的現実である階級の解放ともなるものとして理解されていました。したがって人間性の解放とその自由の要求には、過程として当然さまざまの社会的相剋、封建性とのさまざまのたたかいをさけがたいものとしていたし、そのたたかいを終極の勝利に導くためには、一見、人間性の解放とは逆のように見える集団の規則、献身、克己をさえ必要と理解していました。それらの、歴史の過程が私たちの現実に課す制約は、一九三三年以後すべて「セクト的な強制」というふうに感じられそれを公言することが流行となり、ヒューマニズムという旗は、無軌道な人間感情の氾濫という安易な線に沿ってひらめいたのでありました。日本の近代精神において、ヒューマニズムがいわれる場合、ほとんど常に、それが感性的な面のみの跳梁に終るという現象は、それ自体日本の近代精神の非近代性を語っていると思います。日本の精神は市民社会を知らず、自分一個の存在の社会的脊骨を自身のうちに実感するところまで成熟していません。少年が最初の自我を自分の肉体の上に発見するように、未熟な近代日本の精神が今日においてさえ一番よくわかる人間性として自分たちの肉体の性的行為で集約・表現しようとしているのは深く考えさせられるところです。
昨今注目されているデカダンス、エロティシズムの傾向も、その作家たちの主張するところによれば、いずれも封建的な日本の偽善と形式的独善の風習への反抗であり、ある主張によれば軽薄にいわれている日本の民主的解放という流行語にたいする辛辣な反措定としての人間性の露出と主張されています。坂口安吾の「デカダンス論」はこの点を力説しています。しかし、発展的に推進する人間性そのものの自然な姿、その精神と肉体との過程としての人生とその芸術を考えたとき、たとえ、私たちの闘うべき封建性にたいしてであったとしても、単に反措定的存在に止るということは、それ自体一つの闘われるべき安易さへの停滞ではないでしょうか。横光利一・小林秀雄というような人々の悲惨は、いかに文飾したとしても、自身を、日本の民主的文学の伝統に固定的に対置させた反措定としての存在以上に発展せしめる人間的能力をもっていないという点です。そのために動的な歴史の過程にあっては真実の反措定でさえもありえず、単に反動的存在でしかありません。今日の世界歴史の段階は、日本の作家に少くとも性的表現以外に人間性を主張し行為し描出する可能を与えています。私たちこの精緻な人間が、性器に還元された自我しか自覚する能力がないとしたら、それは病的です。性的交渉にたいして精神の燃焼を知覚しえない男・女のいきさつのなかに、この雄大な二十世紀の実質を要約してしまうことは理性にとって堪えがたい不具です。文学の世界、芸術の世界では、どうして、こういう人間性の崩壊が、あやしまれず、かえって文学的だとして存在するのでしょうか。それらがとりあげられず、その悲傷において、その克服への熱望においてそのものとして肯定を強要して存在するのでしょうか。
久しい間沈黙していた豊島与志雄がこのごろ「塩花」などをはじめ、若い女性を主人公とするいくつもの作品を発表しています。初期からシンボリックな作品を作っていた豊島氏のこれらの作品をよむと、作者は、この人生に私たちが求めるおのずからなる清らかさ、すがすがしさ、偽りのなさを、若い女性の自然発生の感情を描写することで表徴しようとしているようにも思えます。しかし、私たちの心のたえることのない欲求である社会
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