でした。自主なる人民としてのブルジョアジーを、王と貴族と僧侶の支配にたいして、主張したのでしたが、この日本のブルジョアジーの特質は、はじめから、革命力を失った階級としてあらわれ、したがって彼らの力で、憲法だって民主憲法はつくれなかったし、民法にしろ、民主的な民法はこしらえられませんでした。
今日、日本の民主化をいうとき、私たちは、はっきりブルジョア民主主義の完成にたいして実力をもっていない日本のブルジョアジーの歴史性を理解し、日本の社会の半封建性を打破して近代民主主義を確立するものは、ブルジョアジーそのものの半封建性に革命をもたらしうるだけの実力をもつ勤労階級である、という現実を知らなければならないわけです。日本や中国の民主主義の過程が、新民主主義といわれるのは、この特徴的な社会の歴史的性格によると思います。
したがって、文学がブルジョア民主主義の段階において要求する自我の確立や個性の自主の課題も、基本的には、日本のおくれているこの民主主義の特殊性と一致して理解されないと、とんだまちがいに陥ると思います。インテリゲンツィアをこめる全人民の民主的社会生活への進出が実現しなければ、今日どんな個性、どんな自我も、発展することは不可能です。電車のこと一つ、ヤミのこと一つ考えても、それは承認しないわけにはゆきません。しかもそういうふうに全人民の民主的な社会生活の建設をすすめてゆくために、インテリゲンツィアは現在重大な責任を負っています。勤労階級そのものが自分たちをそこから解き放そうとしている封建的イデオロギーにたいして、各方面でともに闘わなければならないことを自覚した進歩的な文化活動家は、いわば自分を解放するためだけにさえも、日本の全人民の民主化に関心をもたなければいられないという事情にあるのだと思います。
この現実を、まじめに、しっかりと身にしみてのみこんだとき、私たちは、はっきりとさっきふれたデカダンなまたエロティックな文学からはじまって、『近代文学』の多くの人々の陥っている個的なものの過大評価の誤りを理解すると思います。さっき中野さんが「反動文学との闘争」という報告の中でいったように、「個人を歴史の発展にたいして、対立的に扱ったところに個人の発展はない」というのは、ほんとうなのです。荒正人氏の逸脱した見かたに対して、中野さんが新日本文学に発表した「批評の人間性」という論文は、近代文学グループのあやまりを最もむき出しに示している荒正人氏の文筆活動をとり上げて、批評しようとしたことは、適切であったと思います。しかし、あの論文の書きかたは技術的に理論のアクロバットであったし、第三者に対しても論点を明瞭に示して、問題を正しく会得させてゆくために必要な客観的叙述にかけていたのは残念でした。文学評論が、論争の当事者にだけわかり、その感情を刺激しあうような楽屋おちのものであることは、民主主義文学運動の課題としてかえりみられなければなるまいと思います。
『黄蜂』という雑誌に野間宏という人の「暗い絵」という作品が連載中です。ブリューゲルの暗い、はげしい、気味わるい魅力にみちた諷刺画「十字架」の画面の描写からはじまって、ちょうど一九三七年ころの京大に、かろうじて存続していた学生運動のグループと、それに近づき接触しながら、一つになりきれずにさまざまの問題を感じている深見進介という青年を主人公としたものです。この作品は、さっきから触れてきている社会発展の歴史と個人との有機的な関係の問題の究明をテーマとしている点で注目をひかれました。この野間という作者が、とくに興味のあるのは、その課題を、高見順のように主観的にも『近代文学』のグループの傾向のように一面的に偏執的にも扱っていず、ずっと拡大され、客観的に基礎づけられた社会史観を土台として、しかも、やはり、個人の確立、自己完成の欲求の問題を主人公深見進介の苦悩の中心課題としている点です。この作品において、野間という作者は、そのころの左翼の学生運動を貫いていた日本に関する歴史的展望――「プロレタリア革命への転化の傾向をもつブルジョア民主主義革命の到来」の意味を十分理解して書いているし、その左翼グループから歴史的見とおしの上で対立して学生消費組合の運動の方向へ移り、組合主義、経済主義に陥っていってしまった一団の学生たちのグループについても、正確に本質をつかんで描いています。学生の食堂の高利貸爺のこと、貧しい深見の父の一生、そして、貧しい大学生でコンニャクおでんのおとくいである主人公のこと。これらも作者は、現代社会で金というものが、人間精神をいためつけ、畸型にしている、その自覚から感じる羞恥、穢辱感の憤りと苦しさとして描き出しています。非常にこくめいに、ブリューゲルの絵の方法のように、ほとんどサディスティックに描いている。「自己完成とその不断の努力のあとを自分の肉体に刻みつける」という言葉で考えている主人公をとおして、作者は、すべての情景、思索、行動をいつも深見進介の肉体、感覚を通じてのみ作品の世界のリアリティーとしてもちこんできています。こういう手法もこの作品の特長だと思います。深見進介の眼の虹彩のせばまるところに光りがあり、情景があり、その虹彩の拡がるところに闇がある、そんなふうに執拗に深見の体にくっついてはなれず、その感情を通じてだけ形象の世界を実在させている。その意味で作者の手法は、そういう主人公の生活を見つめようとするテーマと一致しているといえるでしょう。深見進介は、急進的な学生のグループに接触しつつ「そのグループしかゆくべきところ、生きるべきところはないと知りつつ、彼の全機能でそれを感じつつ、一つにかさなりあえず」苦しんでいる。それは自分の政治的認識が不足だからだとも思うが、なお「心がふれるあつく暗い抵抗のようなものを感じ」それは一人自分だけが感じているのではなく「日本の心の尖端である」と感じる。自己完成ということは、日本ブルジョア・デモクラシーの完成という点とかかわりあった課題であると理解し「科学的な操作による自己完成の追及の堆積」を決心している青年が描かれているのです。
ここでこの作品が注目する価値をもっている点がはっきりしてきます。作者は、主人公が、自己完成を、主観的なおさまりや、観念の枠で形づけようとせず「科学的操作による自己完成の追究の堆積」と理解していることをいっています。科学的ということは、自然科学ではありえないから、社会科学的の意味でしょう。いわゆる文学的にむずかしく表現されているけれども、つまり社会科学的な思索、判断、それによる人間行動の曲折を通じて、より真実に迫りつつゆく社会のなかの自分の足どり、過程のうちに、自己完成というものを理解するというわけではないでしょうか。
こう解釈しても大してまちがいないと思うのは、この作品で主人公の深見進介が、なにかのモメントで、いつもくりかえし自省している一つのことがあります。それは、自己完成の願望の純粋な発露と、保身的な我執との間を、自身にたいしてきびしく区別しようとしていることです。これは、関心をひかれる点です。『近代文学』の個の主張傾向のうちには、この大切な鋭さ、この感覚が全然欠けていて、目が内に向っていず、むしろ自分のいうことにたいする外部からの反応へいつも目が向いているようでさえあります。
この作者が「暗い絵」で深見進介の自己完成のはげしい欲求と、我執とが妥協することをけっして許さず「科学的操作」で追いつめていったとしたら、主人公の自己完成の道はどんなところに展け、つきだされてゆくでしょうか。興味があります。
この「暗い絵」には、まだまだどっさりの過剰物がついています。文章の肌もねっとりとして、寝汗のようで、心持よくありません。しかし、作者は、どうもそれを知っているらしいんです。その気味わるいような、ブリューゲルふうの筆致が、作品の世界の、いまだ解決されない憂鬱の姿を最もよくうつすと思って、ああいうふうに書きとおしているらしいのです。
りっぱな作品ということはむずかしいけれども、民主主義文学が日程にのぼってきているとき、一人のインテリゲンツィアとして、はっきりその課題を自分の精神成長の過程にその言葉において自覚し、苦悩して生きた作品として、やはり無視できないと思います。プロレタリア文学運動の時代、インテリゲンツィアのこの問題は、こういう筋道では文学にとらえられませんでした。プロレタリアの陣営にうつるか、同伴者として存在するか、反動にかたまるか、脱落するか、インテリゲンツィアの行く道は、そういうふうに幾通りかに単純化されていて、たとえば有島武郎にしろ、芥川龍之介にしろ、自身の生死と人民解放運動とを、あんなに深刻にかかりあわせながら、しかし、はっきり知識階級と民主精神の発展の相互関係のテーマで、作品化する力がなかった。彼らに文才がなかったのではなく、日本の社会と文学の意識が、まだ未熟であったからです。野間という作家が「暗い絵」をどういう工合に完成させるか、そしてさらに、その次には、どういうテーマで、どういう筆致を示すか、注目していいと思うのです。
このほか、新しく作品をかいた作家として阿川弘之という人があります。『世界』へ「年々歳々」、『新潮』に「霊三題」をかいていて、子供っぽい作品という批評もあったようです。けれど、ほんとうに、ただ子供っぽい、といわれるきりのものでしょうか。少くとも私は、「年々歳々」という作品の、ひねくれない、すなおな、おとなしいまともさに好感をもちました。今日の、あくどい、ジャーナリスティックになりきった、ごみっぽい作品の間に、阿川弘之という人の小説は、表現にしろ、なんでもないようだが、よく感じしめ、見つめた上でのあっさりした、くっきりした形象性をもっていて、ふっくり、しかも正面から感性的に現実に迫る作風に好感をもちました。「年々歳々」を書いたこの作者が「霊三題」の三つ目のような作品を書いていることが、注目されるべきではないでしょうか。出征し、生きて還れた一人の青年が、故国の生活へどういう工合にして入ってゆき(年々歳々)、そこで何を発見し、どんなこころもちに逢着したか(霊三題の第三番目の作品)、ここには、きおいたたない一つの気質を通じて日本の課題が示されているのではないでしょうか。もとより、まだこの作家にとって、どうと決定したことがいえる時期ではありません。が、多様でなければならない新しい文学の一つのタイプとして、おとなしい清潔さ、まともさ、自然主義からは自然ぬけているというような要素は大切にされていいのだと思います。この作者にかぎらず、なにしろ口の中に酸っぱい水がわくような、作品が氾濫しているのですから。
『新日本文学』の業績と課題
さて、このように錯綜し、紛糾している今日の文学の動向の間にあって、『新日本文学』はこの一年に、どういう文学的創造能力を発揮してきたでしょう。
新日本文学会としての組織活動の成果については、べつに窪川鶴次郎さんの報告があると思いますから、それはそちらに願うことにして、私の報告は『新日本文学』の創造的な面にかぎりたいと思います。
新日本文学会ができたのは、御承知のとおり一九四六年一月で、三月から『新日本文学』が出はじめました。けれども、雑誌の発行はなかなかむずかしくて、九十五ページぐらいのものが、今日までにたった四冊しか出ていません。私どもの文学は楽な仕事をしていないんです。つまり紙の問題です。民主的文学の流れは、これまでいつだって金儲けをしたことはなかったから、今だって闇の紙を、原木と交換で買うというようなことはできません。いかがわしい出版社が、まったくインフレーションにともなう現象としてどんどんできて、妙な雑誌がやたらにできて、それらがみんな紙を買い煽る。ですから、日本の民主主義文学のために意義をもつ『新日本文学』は編集責任者たちにたいへんな努力と心痛とをさせなければならないありさまです。闇紙が日本の民主的文化の重要な新芽をくってい
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