して詩人。主婦、母それで作家。男女の芸術家は、新しいタイプとして、旧い文士的環境とその雰囲気を一掃したもの、新しい民主的な社会生活建設における自分の役割を、はっきり知っている社会人として人生の上に立体性をもった人々であるべきではないでしょうか。
 そういうふうにつきつめてくると『新日本文学』が、これまで(第四号まで)社会主義的リアリズムの問題について、その歴史的省察ならびに今日での民主主義文学との関係について、系統的に詳細に解明や研究をあまりしてきていないことについて、考えなおす必要が感じられると思います。もちろん創刊号に蔵原惟人さんの民主主義的文学の本質を明かにした評論がありましたし、窪川鶴次郎さんの論文、除村吉太郎氏「民主主義文学の諸課題」などという有益な論文がのっていますが、十何年もの間民主主義的な文学の伝統からまったく切りはなされ、文芸評論らしい評論一つよむことなしに成長してきた今日のほんとうに若い世代にとって、改めて、日本文学における明治以来の民主的文学伝統をはっきり辿りなおし、プロレタリア文学発生の歴史とその複雑な過程をはっきりさせることは、大切だと思います。世界観の問題とか創作方法の問題とか、今日いろいろ意見がいわれているが、今日の読者として土台その問題の本質が十分わからないまま、あれこれ論議をきいて、判断を迷わされることは、民主主義文学の発展にとって有害です。ブルジョア文学と民主的な文学の本質に立ったプロレタリア文学とはけっして同質の文学の両面ではなくて、プロレタリア階級が資本主義社会から発生してきた歴史的に新しいそして質のまったくちがった一階級であるのと同じに、プロレタリア文学運動は、ブルジョア文学と本質をことにした新しい文学の発展者として、出現したものです。こういうことが、やかましくいわれている実感でわかっていないから平野謙氏のように、偏執して火野葦平と小林多喜二は同じ歴史の二つの面にすぎないなどと、人間感覚の喪失した断定を下すことになるのです。そして、戦争によって無知にされ、価値判断を抹殺された今日の若い人々の間に、こういう信じがたい感情の鈍磨があることも、私たちは十分勘定にいれなければならないと思います。民主主義文学というものにしろ、日本の民主主義の本質が示しているとおり、そのひろい幅のうちに進歩的インテリゲンツィア小市民の文学をつつみながら、その最も推進的な部分は勤労階級の文学によって代表されなければならないのです。『黄蜂』の「暗い絵」も「町工場」も今日の民主主義文学の幅のなかにこめられて前進するのですが、質において、もっともっとどっさりの「町工場」のような作品が出てくるようにつとめなければならないわけです。
 今日の民主主義文学の段階で、社会主義的リアリズムの問題は、どう扱われるべきか。これは、この間、ソヴェト同盟から作家シーモノフなどが来たときの座談会で、感じたことですが、みんななにか心にかかるように、ソヴェトの社会主義的リアリズムについて聞くんです。するとシーモノフはソヴェトでは一九二九年以来その創作方法でやってきていると返事します。ああそうですか、と話がなくなってしまう。社会主義的リアリズムといってもそれはその国々によってまた民族的段階によって一つのきまったものをおしつけるわけではない。人民のための文学をつくる、それが社会主義的リアリズムだとシーモノフがいう、わかりきったことで対談が終る。しかしなにか気に残っています。
 その気に残っているものが問題なのです。日本で社会主義的リアリズムを取上げましたのは一九三一年の終りから二年ばかりの間でした。ソヴェトの方は一九二九年から五ヵ年計画が始っておりますから、ソヴェトのもっておりました社会情勢と芸術の立場から、プロレタリア・リアリズムからの発展としての社会主義的リアリズムには必然があった。
 しかし日本の社会の半封建的なるものが非常に多くて、ブルジョア民主主義のための闘いののこっているところへ、いきなり社会主義的リアリズムといってもなにか肌にあわない感じがあったわけです。その肌に添わないところを、社会科学の立場と文学の立場から綜合的に研究して落ついた結論を出すひまのないうちに一九三二年の春の全文化団体への弾圧があり、社会主義的リアリズム論争は、最もみじめなまたみっともない形で、文学における進歩性と階級性の否定の口実につかわれてしまった。そのまま、ズルズルべったりに今日まで来ています。『新日本文学』第四号の巻頭に、中野重治さんが「批評の人間性」という論文をかいています。民主主義文学の伝統にたいして正当性をかいている平野謙、荒正人氏たちの論説を反駁し、書きぶりは、アクロバットめいているが、衝《つ》く点はたしかについています。こういう本質をもった論文は書かれなければならないが、やっぱり、文学の世界の住人以外の人に、これだけでは、不十分です。やっぱり、基本的諸問題の解明がなくては、派生する論議はわからないし、民主主義文学運動自体を推進させるために、社会主義的リアリズムは、民主主義文学建設の過程でどう理解されるべきかということが明瞭にされる必要があると思います。これが新日本文学会への宿題の一つではないでしょうか。

 新日本文学会の東京支部は、「東京の一日」というルポルタージュ文学を動員しました。ここへは非常に広汎な作家が参加し、一冊の本としてまとめられました。その成果についても、いずれまじめな文学的検討がされるでしょう。また、新日本文学作品コンクールが行われ、その選が行われています。どんな作品と作家とが登場するでしょうか。いろいろの意味で期待されます。ほんとうに新しい、若々しい、柔軟なこころをもってかかれた作品が出たらうれしいと思います。
 日本における民主主義文学運動の過程はけっして平坦でありえないし、まして、会そのものと各会員の経済事情が逼迫していて、どうしても文学運動としての密度が分散させられがちです。各人の文学上の活動が既成ジャーナリズムのうちに散発します。このさけがたい事情についてもよく研究して、いっそう民主主義文学の本質を明かにして、その線で統一されて、各方面・各分野に努力してゆくのが本当だろうと思います。

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附記 これは一九四六年十月二十九日、新日本文学会第二回大会で行った「文壇及び文学の一般情勢」という報告を整理したものです。この報告では新しい方向に研究を展開しはじめている国文学、短歌、俳句、戯曲、児童文学等についてふれることができませんでした。この報告の不十分な点ですから、それを諒解してよんでいただきたいと思います。[#地付き]〔一九四七年五・六月〕
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底本:「宮本百合子全集 第十三巻」新日本出版社
   1979(昭和54)年11月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十一巻」河出書房
   1952(昭和27)年5月発行
初出:「日本評論」
   1947(昭和22)年5・6月合併号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年4月23日作成
青空文庫作成ファイル:
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