、その最も推進的な部分は勤労階級の文学によって代表されなければならないのです。『黄蜂』の「暗い絵」も「町工場」も今日の民主主義文学の幅のなかにこめられて前進するのですが、質において、もっともっとどっさりの「町工場」のような作品が出てくるようにつとめなければならないわけです。
 今日の民主主義文学の段階で、社会主義的リアリズムの問題は、どう扱われるべきか。これは、この間、ソヴェト同盟から作家シーモノフなどが来たときの座談会で、感じたことですが、みんななにか心にかかるように、ソヴェトの社会主義的リアリズムについて聞くんです。するとシーモノフはソヴェトでは一九二九年以来その創作方法でやってきていると返事します。ああそうですか、と話がなくなってしまう。社会主義的リアリズムといってもそれはその国々によってまた民族的段階によって一つのきまったものをおしつけるわけではない。人民のための文学をつくる、それが社会主義的リアリズムだとシーモノフがいう、わかりきったことで対談が終る。しかしなにか気に残っています。
 その気に残っているものが問題なのです。日本で社会主義的リアリズムを取上げましたのは一九三一年
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