人の新しい評論家たちは、もとより自分の書きたいと思う作家を自由に研究題目としているのですが、注目されることは、このつつましい試作三つともが、作家論というものはどういう方法によるのが最もその作家の真実に肉迫しうるものかということを、地味に、客観的に、社会的に、文学的に究明しようとしている態度です。自分はこういうんだ、というふうの古い個人的押し出しが匂っていないところが、新鮮なのです。そして、この新鮮さというものは、執筆者たちが未だ未熟者で、個性を確立させていないから、自分について臆病であるから、個人の匂いが鼻につかないというのでしょうか。まったくちがいます。この人々の持っている小さいがまとも[#「まとも」に傍点]な新鮮さは、もうこの人々の生活感情、文学感情は、古い意味での自分が[#「自分が」に傍点]、自分が[#「自分が」に傍点]の主張から拡大されていて、一つの作家論によって自分のもち味を展開してみせる興味よりもっと成長している、という文学の新しい線を示しています。一人の作家をとらえて、それを社会進歩の歴史の方向に立ちつつ、客観的に究明してゆく、その熱意とよろこびのうちに、自身を究明し、自
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