の涼味と穏やかな陰影とが、散らばった紙や書籍に優しく絡んで自分を待っていてくれたのを見ると、どんなに私は悦ぶだろう、八月の始めに故国へ帰る人に託そうとする原稿は、まだ沢山溜っている。それだのに激しく暑かったり、大風が吹いたりして気分の纏らない日はほんとに辛い。が、この、今日のような天気! それは全く素晴らしい。私は嬉しまぎれに歌を唱いながら体を拭いたり髪を上げたりした。そして子供のような晴々した気分で下に御飯を食べに下りた。第一階目に私の食堂があるのである。
 香りの好い珈琲《コーヒー》を啜《すす》りながら、私はいつか仕事のことを考えていた。おいしいトーストを食べながらもそのことを考えた。殆ど口では云い表わせない、あの集注した真剣な、緊張した気分に満たされながら、私はまるで頭のうちに浮んだ仕事を噛むで味うように御飯を食べ始めたのである。
 ところが、もう少しでそれもお仕舞いになろうとしたとき、一箇処に凝集していた私の注意はふと妙な物音に、引きつけられた。
 人の足音である。明かに大人の足音である。それがコトリ、コトリと忍びやかに上の部屋へ登って行く――。私は思わずオヤと云って立ち上った。なぜならば、この部屋の傍を通って行く階段は、私ほか使わないものなのである。私ほか使わないのだから、従って、私の部屋へ用事のある者以外に決してここを登って行くはずはないということになる。二階の人達の使うのは、それとは反対の側にちゃんと付いているのである。
 耳を欹《そばだ》てて怪しんでいる私の頭の上を、人は依然としてカタリコトリと動いて行く――、瞬間に昨夜のことを思い出した私の目前には、明け放して来た寝室や、紙の散らばった机の上の様子が電光のように通り過ぎた。いつの間にか唇を噛んで下を向ていた頭を持上げると、私は大急ぎで戸外にいる彼のところまで出かけて行った。
「グランパ、私の部屋へ誰か登って行く」なぜだか分らないが、私の唇からはひとりでに囁くような小さい声が出た。
 あまり小さい声だったので聞えなかったのだろう。
「え?」と云いながら振向く彼の顔の真正面で、私は「誰か部屋へ行くことよ!」と叱るようにムキな声を出した。
 変に緊張して強直した感じが体中に漲って、私を自由に歩かせない。卓子《テーブル》の前まで戻って来ると、世界が急に真黒になりはてたように、何にも彼にもに気がなくなった私は
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