じた批評に対する意見に類似した意見を語っていられる。興味あることは、その滝沢氏にしろ、その生き生きとした言葉というものを具体的に座談会の席上で求められると、われわれには分っているのだが、今ここで概括的に言えるものじゃないと、読者にはもの足りない一種の主観的な態度で言わざるを得ない事情です。
俳優が一つの役を客観的な芸術の価値として創造して行く困難さは容易なものではない、そのことは実に理解されます。一つの端役でさえ、真面目な俳優は一度より二度目の時と、役柄のつかみ方、端役としての必然性の理解の点で成長してゆきます。そういう苦心を感じることの出来ない一面的な批評を、座談会では、望ましくないものと批評されています。これも尤もであると思います。しかし、同じ座談会でシュワイツァの死に方についての批評が話題になった時、宇野重吉氏はそれに対し、ああいうことは前から言われていた、あれ分ってるよ、いろいろ新手を考えているうちにお終いになったと感想を述べています。演技の独自性の評価が強く求められているこの座談会として、そういう問題があの程度の、謂わばむこう意気で過ぎていることが私の注目をひいた次第です。
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