けれども、どうしたのか何の響きも伝わって来ないので今度は作り声をやめ、少し不安を感じながら、
「モシモシおかあさま」
と呼んでみた。
 するといきなり、ふだんの母とはまるで違った声が、激しく、
「百合ちゃん、百合ちゃん! 道男さんの頭が変になってしまったよ」
と、終りの方は殆ど嗚咽《おえつ》と混同しながら、極度の混乱をもって叫ぶのを聞いた瞬間。
 あらゆる力が、サアッと流れきってしまったような疲れに似た感じに撃たれると同時に、途方もない力をこめて反射的に受話器を置いてしまった。
 一声の返事をも与えなかったに拘らず、これからのことが皆母にも自分にも解っているのを感じた。
 それから三十分の後、父と私が病室に入ったときには、午前中見た表情とは、まるで、まるで変ってしまっている彼の上に、私の目にも見違い得ない脳膜炎の症状が、痛々しい痙攣《けいれん》と頸部の強直に伴って襲いかかっていたのである。
 あの魂を引きむしられるような叫喚《きょうかん》。
 あの物凄い形に引きつった十指、たえず起る痙攣のあの恐ろしい様子を、私はどんな言葉で云い表わすことができるだろう!
 神よ! 全く堪らない。
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