ものが在って、初めて互の友情の社会的なよりどころが与えられる。境遇が変っても、その変りかたに互の生活態度として納得の行くものがあり得ること、その境遇の変えかたに、相手の生活態度として評価し尊敬し得るもののあること、そこに女同士の友情も立つのである。そういう意味で、友情は生活的である。互の生活の導きぶり、関係させぶりそのものの中で友情の本質がいわば語られるのであって、そういう本来的なものからはずれて、友情のためとか、友情の美しさ云々は成り立たないのであると思う。友情という抽象名辞で描かれてゆくものでなくて、互の間の日々に生きこめてゆかれるものなのである。
異性の間の友情というと、何かそこに特別なものが待たれているように思われなくもない。異性の間では、一方が男であり一方が女であるのだから、その友情にどこやら恋の香りも漂っていそうに思われたり、恋愛と友情との境にある模糊とした感情の霞がひかれていて、きょうはそのあちら側へ、きのうはこちら側へと心の小舟の操られるサスペンスに、異性の友情の趣があるとでもいう風に気分の上で描かれているところはないだろうか。ゲーテだのルソーだの岡倉天心だのの伝記には、恋愛と同義語のような異性の間の友情が出て来てもいる。異性の間に漠然とした関心、興味、ある魅力が感じられているという状態のとき、それは互の条件次第で恋愛としてのびることも想像されると思う。けれども、異性の間でも、友情が友情としての感情内容をはっきりうけてあらわれた場合、その感情の本質は、あくまで友愛であって恋愛ではないし、それが友愛として持つ感情の性質では、同性の間の友情の本質とまったく同じ社会的な地盤に立っているものであると感じられる。
自然な女の心持で、異性の間の友情を考えると、どうしても女同士の友情というものが浮んで来る心理の必然が、おのずからこの感情の本質的な機微にふれているのではなかろうか。
恋愛というものは、この社会の歴史の現実のなかで、男と女とが相互的ないきさつでおかれている矛盾や対立やについて、客観的にそれを把握した生活態度がきまっていなくても生じると思う。矛盾そのものの発現としてさえ、恋愛はあらわれ得る。けれども、異性の間の友情は、その輪廓のうちに女は女としての、男は男としてのめいめいの恋愛の経緯までをこめたものとして感じられるのだから、その点でも女同士の友情
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