異性の間の友情
宮本百合子

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)矜持《きょうじ》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地付き]〔一九三九年十月〕
−−

 先頃、友情というものについてある人の書かれた文章があった。その中にニイチェの言葉が引用されている。「婦人には余りにも永い間暴君と奴隷とがかくされていた。婦人に友情を営む能力のない所以であって、婦人の知っているのは恋愛だけである」と。その文章の筆者は「婦人についてかく言い得るや否やは、問題であるけれども」とただし書を添えながら、元来友情は、お互が対等であって互に尊敬し合うことのできる矜持《きょうじ》ということが重要な契機であるから、奴隷や暴君が真の友情をもち得ないということの強調としていられるのであった。
 今の時代の生活の感情のなかに受けとって味わうと、ニイチェのいった言葉もひとりでに彼の生きた時代のものの考えかたを歴史的に映し出していて面白く思われる。この詩人風な哲学者が「婦人のなかには」云々と一方的にだけいっていて、そのような婦人が存在する社会の他の現実関係として、当時の男性が婦人に対して持っていた習俗なり態度なりについては、男自身のこととしてまるで省察の内にとりあげていないのは興味があるところではなかろうか。婦人の知っているのはそればかりとされている恋愛にあっても、そういう相互関係のなかでは、やはり婦人のうちなる暴君か奴隷かが跳梁して、つまりは彼のもう一つ別な有名な言葉、すなわち、「女には鞭をもって向え」という結論をも導き出せたのだろう。歴史の鏡にうつる姿として今日見れば、婦人についてのそういうさまざまの表現は、とりもなおさず男の気持の裏からの告白であり、女とのいきさつでは男の中にも「あまりにも永い間暴君と奴隷とがかくされていた」ことを計らずも語っていることにもなって来る。
 友情論の筆者は、ニイチェの言葉に疑点を挾んで引用されているわけであるが、では、現実に婦人の友情を営む能力というものは現在どのくらい成長して来ているだろうか。友情を異性の間のこととして見た場合どうだろう。
 そういうような質問をされたある壮年の作家は、異性間の友情というようなものはあり得ないと答えられたそうである。その答えのされた気持は分るところがあると思う。妙にロマンティックに
次へ
全8ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング