と性質がひとしい。そして、女が女としての自分たちのありようを客観的に見て、そこに働きかけてゆく一定の生活態度をもって、初めて女同士の友情の可能に立つとおり、異性の間の友情も、男と女とが、この現実のなかで置かれている相互の対立の意味、反撥する利害の社会的な意味、それに対して処して行く上での一定の人生態度というものがあって、初めて友情を以て互に認め合う人間交渉が生じて来るのである。別の言葉でいえば、Aという女がBという男に対してとる態度。Bという男がAという女に対してとる態度。その間に人生への態度として共感が生れ、それをCという感情とすれば、それが異性の間の友情と呼ばれるものであろう。女は女として、男は男としてそれぞれにはっきりした生活態度を持っているということが、ここでますます決定的な条件となってくる。さもなければ、友情という感情は、その本来の人間的実質をうけることができない。よくカメラとか音楽とか、いわゆる趣味を通じて異性の間が結ばれるけれども、社交性とは違う友情という点からいえば、同じカメラに対するにしても、それに対する一定の態度において、互の評価なり敬意なりが可能であるということが求められるのであると思う。境遇が同じだというだけで友情は育ち得ないとおり、趣味の対象が同じだからというだけでは友情に至らないのである。
年齢やその他の生活事情で、友情と恋愛との区別が互の感情の中でつき難いということも、現実にはしばしばあることにちがいない。それは否定されないけれども、それだからといって、異性との間に友情はないというのは、明らかに一つの誤りであり、そのこと自身、今日もなお私たち女や男が、人間としてどんなに狭く貧相な感情の種目で、しかもぼんやりしたり混乱したりしているその内容のままで日暮しをしているかという、社会のありようを告白してもいるのである。
大体友情というものは、昔からなぜ尊重されてきたのだろう。普通美や善というように人生に永遠な友情というものがあって、それを私たちが生活の現実の中に得ることがなかなかむずかしいから、尊重すべきものと説明されて来ているように思う。はたしてそうであろうか。自分たちの生活にもたらされているいくつかの女同士の友情や異性の間の友情というものの過程をたどって考えてみると、どうも永遠な友情というものの方からその価値はいえず、むしろ激しい生活
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