心は溢れているとして、全体の人数の何割の若い職業婦人たちが、それぞれの勤め先で結婚と分娩とを公然の条件として認められているであろうか。共稼ぎの率は殖えている。でも、女にとって職業か家庭かという苦しい疑問を常に抱かせて来たさまざまの相剋は、決して社会的な解決を得ていない。そのことのうちには、給料のこともふくまっていて、働いている婦人としての感情はお互に単純であり得ない。社会の凸凹が各個人の感情の凸凹にまでなっているところがあって、同じ勤めの女のひと同士の間に、万遍ない友情がなり立つということさえむずかしい。女の日常に嫉妬や反目がないといえば、それはうそになろう。
 それにもかかわらず、なお女同士の間には次第に社会的な基礎での友情がえられて来ているし、その質もおいおいたかめられ、それを評価し尊重することも学んで来ているのは、どういうわけだろう。そして、そういう成長のあとは、家庭にこもって、親や良人の翼のかげをうけている婦人たちより、ともかく職業をもって社会の波浪をうけている女のひとたちの感情のうちに、顕著であるというのは、注目されてよい事実だと思う。社会的な勤労に結ばれている女は、女同士のいやさもきつく感じている半面で、女同士の友情を営む可能をはぐくまれている。自分たち女というもののこの社会でのありようというものが、働いている女にはまざまざとした分りかたで分って来る。生きて行く場面で互が苦しく競り合うものとして現れているとすれば、今日目の前にそういう現象を持ち来している社会的な動機への洞察がいつかよびさまされずにいない。女としての境遇に処するということのうちに、おのずからその境遇に向う自身の態度というものが加わって来て、その積極な自覚は、新しく見開かれた眼差しで、ぐるりの女同士の暮しぶりを見直させるであろう。そこにやはりあちらでもそのような視線をもって周囲を眺めている一対の黒く若々しい眼が出会ったとき、単なる知り合い以上の共感が生じる。そして、やがて友情が芽生え、その友情はあらゆる真摯な人間関係がそうであるとおり、互の成長の足どりにつれて幾変転し、試され試し、幾度か脱皮してその人々の人生へもたらされて来るのである。
 境遇が同じようだというだけでは、まだ真の友情の生れる条件に欠けているということは、実に意味ふかいことであると思う。境遇に向うその人の一貫した生活態度という
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