くなかったのである。
彼女は、廊下で応接室に行こうとする良人を引とめて訊ねた。
「あなた、きのういらしったとき沼津のこと何ともおっしゃいませんでしたろうね」
彼は、立ち止ろうともせずに云った。
「云えるものかね」
けれども、彼女は気がすまなかった。彼女は居間に来て榛原の書簡箋を繰りひろげ、芳しい墨をすり流した。そして徐ろに一昨夜の礼から、筆をかえして今度の慶び、人の親の心、自分達の誠心を書きすすめた。彼女は調の高い自分の文章に酔った。彼女はいつか自分がこれを受取って読む高畠夫人の身にまでなり、眼をうるませて筆を運んだ。
丁度みや子が本文を書き終り、ほっとして、長い巻紙の端を手にとりあげた時であった。彼女の背後の襖の外で書生の声がした。
「奥様」
「――あけておはいり」
書生は鳥の子の襖を肩幅だけ開けて、一つの到来品を書状ぐるみさし出した。
「今高畠様からお使いがこれを差上げてくれと申しました」
「へえ……高畠さんて――」
彼女は腑に落ちない面持で封書の裏を見た。高畠正親とある。みや子は理由の分らない不安にせかれて封を切った。処々とばして読んだ文面によると、例の皿は余程お気に
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