は贋物地獄に堕される。声が出せたら、陶工がさてと偽の署名をしかけた時、皿や花瓶は一斉に哭《な》いて拒んだだろう。
「やめてくれ、やめてくれ。どうぞあなたの名を書いてくれ」と。
日下部太郎に皿は生きものであった。無抵抗な、而も情感をなみなみと内に湛えた一つのいとしい生物のように思われるのであった。
窓際に佇んで、側棚に近より遠のき、飽きず眺める日下部の挙動を見守っていた高畠夫人は、彼の様子に殆ど「恋々」という形容詞があてはまりそうな何ものかが在るのに驚いた。
次の日は、日曜であった。
日下部太郎は来客で応接間にいた。
みや子は居間の六畳で炬燵に当りながら、高畠夫人宛の手紙を書いていた。
彼女は、無断で良人が昨日子爵家に行ったのを知ると、ひどく不安な感情に襲われた。彼女は、
「そう云って下されば私の名刺も持って行って戴いたのに……」
と良人をせめた。が、彼女の真の心掛りはそれではなかった。沼津の話はまだ自分と夫人との間に閃いた沈黙の感じ合に過ぎなかった。良人が言葉に出して何を云わないでも、昨日と今日、彼だけが夫人の目前に現れ、自分と夫人との心の糸を遮ったことは、みや子にこのまし
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