、共和国海軍司令部のコミサールをやった。
 一九二〇年から二二年にかけてレイスネルはアフガニスタンへ外交官として暮した。翌年はドイツへ。
 レイスネルの、豊富な革命的活動の経験、見聞は、「アフガニスタン」「バリケードのハンブルグ」「ヒンデンブルグの国で」となって続々あらわれた。
 建設のウラル地方へ彼女が行った時に書かれたのが「石炭、鉄と生きた人間」だ。
 レイスネルの初期の文章は、なかなか凝っている。いろんな外国語がはいったり、云いまわしが念入りだったりして、ソヴェト同盟の大衆にはむずかしすぎた。レイスネルは、然し、自信をもっていた。自分はレーニンの文章はきらいだ。あんな味もそっけもない、ボキボキした文章じゃないと云っていたが、彼女が段々革命そのものの中での活動を深め、成熟するにつれてその意見がかわって来た。
 レーニンは素敵な文章家だと云うようになった。そして、彼女自身の文章もかわって来た。簡単に分り易く、しかもその一句一句が魂に刻みこまれるように書くことは、書こうとする事をそれだけハッキリ、強く掴んでいなければ出来ないことなのだということを、レイスネルも悟ったのだ。彼女の独特な芸
前へ 次へ
全39ページ中32ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング