の中にありながら、過去において、婦人の文化水準が総体的に男にくらべてどうしても低かったというのは何故だろう? 婦人の一生にとって最も密接な影響をもっている家族制度に集中的にあらわれている日本の封建制が、全面的に婦人の発展をはばんでいる。一応婦人の自由が認められ、また女性尊重の風のある文学や科学、政治、経済という真面目な仕事に婦人の進出がまれであったことこそ資本主義の社会での文化の本質的な特徴なのだ。
人道主義的な動機から、キリスト教的な表現として、エレン・ケイがそれを主張して以来、わたしたちは母性の尊重とか、人間としての男女平等とかいう文句を毎日耳にしている。然し、世界の資本主義の社会は、果して現実に母性を尊重し男女平等の待遇をしているだろうか?
実例を、日本にとって見よう。
日本には、百五十三万四千三百十四名(一九三〇年六月、社会局)の婦人労働者があり、その六割六分までが工場労働者だ。資本主義社会の生産は、こうして夥しいプロレタリア婦人の労力によって運転されているのだが、資本家の利を守るために行われる産業合理化によって労働時間は九時間以上十一時間、十三時間(!)という驚くべき苛酷さだ。婦人労働者の賃銀は、一九二七年、工場労働者総数平均賃銀が、男二円十五銭に対して女はタッタ八十七銭だった。差は一円二十八銭という額にのぼっている。経済恐慌によってこのヤスイ賃銀もズルズル低下し、昨年頃は婦人工場労働者の平均賃銀は八十四銭まで落ちた。弁当もちで、交通費をもって、この有様だ。企業者は、この話にならない賃銀さえスラリとは渡さない。どの工場でも何よりみんなのいやがる罰金制、歩増制度、強制貯金などが行われているのは、誰でも知っている。日本では婦人労働者がその八割六分を占めている繊維工業者らは、実物供与、寄宿舎、光熱、被服、賄等を会社の手に独占して更にそこから儲けている。而も一九二五年、六百二十軒の工場で、宿舎に雨戸のあるのが[#「雨戸のあるのが」に傍点]二百四十九軒。雨戸のないのが[#「雨戸のないのが」に傍点]三百七十一軒という有様だ。そういうひどい条件で働いている十四から二十四五の婦人労働者は、どの位の文化程度をもっているものだろうか。不就学、さもなければ小学中途退学が一番多い。
その低い文化水準を高めるために、経営者たちは工場の寄宿舎につめられている労働婦人にどんなも
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