王と貴族と僧侶だった。貴族は武力を統帥し、僧侶は貴族階級のイデオローグとして最高の文化活動を担任していた。だからラテン語で書かれたその頃の文学は、どんな馬子によっても書かれなかった。ただ僧侶のものだった。当時は文盲の王があり貴族があった。
 日本の現在までの婦人作家が、どういう階級から出て来ているかということを考えても、事実は一目瞭然だ。
 日本の既成の婦人作家はプロレタリア作家といわれている人々をこめて、没落した小市民層かそれより以上の経済的基礎をもった層から出ている。
 世界のプロレタリア解放運動は、その文化戦線をもふくめて、最近益々積極的ではあるが、残念ながら資本主義社会で大衆の文化教育機関とジャーナリズムとをプロレタリアの手の下におくところまでは行っていない。
 それは、この間うちつづけて読売新聞紙に載っていた「処女航路を行く女流作家」という紹介を見てもわかる。
「処女航路を行く女流作家」というのはよんで字の通り商業的なジャーナリズムが自身の立場から新進の婦人作家を並べて、短い自己紹介の文章と写真とを一覧に供したものだ。十人ばかりの婦人作家の名があった。中には、女人芸術その他にもう何回か作品を発表していた人もあったし、もっとひどいのは既に過去数年間、文筆家として生活して来たような人も加えてあった。だが、問題は、そこにはない。新顔として紹介された婦人作家たちの中に、ハッキリ、プロレタリア文学を把握しようとしているらしい感想を書いていたのは二三人しかなかったこと、及、その十人ばかりの婦人作家たちは、みんな小中流以上の家庭の人で、文化学院などを出た人が相当あったことだ。
 世界の経済恐慌によって、どこでも階級闘争は進展し、資本主義とその文化のもがきは、其等の新進婦人作家たちの短い抽象的な文章の中にさえ反映している。それでも商業ジャーナリズムは、遠かれ近かれ、自身の属す社会圏から婦人作家を見つけ出そうと焦っている。
 紡績工場に働いている若い婦人労働者の中に、若しかしたら、面白いプロレタリア詩をつくる婦人はいないだろうか、とは考慮されていない。そこまで大衆の中に沈まないでも、例えば『ナップ』その他にこの頃一田アキという名で望みのある詩を書く婦人が現れている。しかしそういう新しい婦人詩人のところまでは新進を求める手をのばさない。

 それにしても同じ資本主義社会の文化
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