のを読ませ、どんな講話をきかせているだろうか?
 商業ジャーナリズムの一隅、工場御用雑誌営業者が歴と存在して、『白百合』『処女』などという印刷物を出し、婦人労働者の奴隷的地位の太鼓もちをやっている。有給生理休暇なんぞのないのは分りきっている。――
 だって、それはひどい工場労働婦人のことで、われわれのことではないと云う人があったら、その人を百貨店へ案内しよう。
 朝から夜まで立ちづめで、「すみません、ありがとうございます。お待ち遠さま」と労働している婦人たちは、どうか。
 ああいう仕事が屈辱的でないか? 体にいいか? そして、訊こう、どういう階級の婦人たちがああして働いているか、と。
 資本主義の経済はゆきづまって、これまで中流家庭の若い婦人が働く必要に迫られはじめたのは一九一九年ごろからのことである。これらの若い女性は、女学校を出ている人が少くない。婦人の女学校から専門学校出の最多数が銀行、会社などに使われているのだ。
 作家の菊池寛は、今日女で男なみに給料のとれるのは女給だけだ、と云った。そして、見識あるらしく、今の女は、専門技術家としてどんな技術ももっていないと云っている。しかしこれは「今の女」のつみだろうか。日本の教育は男児と女児とを、小学校のころから区別している。女は家庭で良人の補佐ができればよいという明治時代の女子教育は進歩していないのだ。
 資本主義の国として、しかもつよく封建性ののこっている日本文化は、支配者自身でさえ今では不便がるほど基礎的な男女教育にまで差別を設けている。女学校は綱領として経済的寄生者である良妻をつくることを目標としている。生産単位として男と同じ熟練技術者をつくろうとは決してしない。
 あらゆる分野で、男より低廉な賃銀で過労し、母性の重荷を負った不熟練技術者としての婦人を準備しつつある。その社会的な弱点を改正しようとしないで、女は、女は、と女のおくれをせめつけるのは甚しい矛盾だ。なぜなら、「女は」と女をいやしめる人々はきっとその一面に「女のくせに」という言葉をもっているのだ。そして、女性が自分たちの力で自分たちの境遇を打ちやぶってゆこうとするのを「女のくせに」なまいきな、可愛くないこととして圧えつける。資本主義社会における婦人のこういう一般の事情の中で、文化の最高点である芸術運動に、婦人が少数しか参加し得ないのは自明だ。日本で、婦
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