ている点では一見国際的であるらしく思える。
 では、そういう諸作品が、何を主眼として外国をとり入れているか? 第一に、主題の異国的な目新しさだ。一九三一年の中国の日常風景は確に蒋介石のブルジョア革命の影響、列強植民地政策の行きづまりによって変っただろう。だが、吉行エイスケが中国の日常風景を作品に盛る場合、作者にとって主要な精髄は、銀座にあるとは種類の変った現代中国[#「現代中国」に傍点]エロ・グロ風景だ。資本主義化された海港都市にあって一層グロテスクであるところの中国苦力に乞食。エロチックであるところの植民地中国売笑婦だ。今日の中国と世界プロレタリア革命との必然的連関ではない。
 説明するまでもなくエキゾチックだということは、ある民族の自然的環境、伝統的風俗習慣が一面的に誇示されることを意味する。従って、ニッポンは中国と、中国はアメリカと違えば違うほどいい。しかも民族的な違いそのものを決定的なアルファとし、オメガとするところに異国趣味を根とするブルジョア文学の国際的要素の特性がある。
 帝国主義のファッショ化につれて、このブルジョア文学中へ国際的らしい[#「国際的らしい」に傍点]主題を
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