がどの位小さいものになれるかということです。一つ罌粟《けし》の実になって、私の掌に乗ってもらえたら思い残すところはありません」
天狗は馬鹿にしきった顔で、
「ヨシ来た。俺は何んにでもなってやる」
と小ッちゃい罌粟粒になって百姓の掌に乗った。そこで百姓は自分が人間であったことを喜びながら、その罌粟粒を口に入れ、歯でよくよく噛んでこなして、翌日、糞にしてしまった。
この話を直木三十五は、いつか聞いたことはなかったのだろうか。
三
そのほかにも、ブルジョア作家のファッショ化の一形式として、一見、自由主義的な、或は復古趣味的な作品を書くことになって、ハッキリとファッショへの途を辿っている一群の人々がある。例えば牧野信一の「ゼーロン」川端康成の或る作品などは表面個人主義的な現実からの逃避を示しながら、現在の火華の出るような階級対立の現実から自身、眼を外らし、同時に読者をも科学的な世界観から切り離してくる点において完全にファッシズムの一つの支柱としての役割を持っている。群司次郎正ははっきりと自身のペンが軍事御用ペンであることを昨今は証明しているし『文戦』の里村欣三が『
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