は持前のきかん[#「きかん」に傍点]気から中間層のインテリゲンチャが、ファッショ化と共に人道主義的驚愕を示し然も自身では右へも左へも、ハッキリした態度を示し得ないことに憤慨して、「俺は此の世に恐ろしいものはない。ファッシストにだってなって見せるぞ」と大見得を切ったのだ。ところで直木も俗学的な人生観を基礎とはしていても、才人だけあってファッシズムの暫定的な性質はボンヤリ理解し、抜目なく「向う一年間」と自身のファッショ化期限を決めている。この直木の態度と犬養健の態度との間には何処やら共通の一応の悧口さと基礎的な愚さとがある。
犬養健も『白樺』へ小説を書いていた時は、人道主義的作家であった。ところが大人になるにつれて人道主義のヤワイ[#「ヤワイ」に傍点](柔い)ことが判って来た。中途半端な人道主義はイザと云う時、役に立たないと云うことを知ったところは犬養健の部分的な賢さだが、人道主義を清算して親父の秘書となって政友会に納まった所に、彼の決定的な階級性の暴露と見透しのきかないブルジョア・イデオロギーの具体化とがある。直木も似ている。右や左に気兼ねをして、然もどんな実践力も示さない未組織インテ
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