鼻眼鏡をつけ顎に髯のあるチェホフが、独身暮しの医者が、双眼鏡をとって海上の艦隊を眺める。
 町では小歌劇、蚤の見世物。クニッペルがひらひらのついた流行型《アラモード》のパラソルをさしてそれを女優らしく笑いながら観ている。チェホフは黒い服だ。書斎は今ランプが点《とも》っている。まだ石油は臭わない。かなりよい。その下でチェホフは白い紙を展《の》べ、遠くはなれて暮している女優の妻へ手紙を書いている。母が戸をたたき、入って来る。
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――マーシャに云ってお呉れ、次のものを持って来るように。(1)[#「(1)」は縦中横]女中の前掛。(2)[#「(2)」は縦中横]肌着用の白テープ。(3)[#「(3)」は縦中横]裾へ縫いつける黒テープ。(4)[#「(4)」は縦中横]肌着の貝ボタン。
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 再び静か。淋しい。彼はただ坐って新聞を読んでいるだけだ。――この冬はモスクワで暮そう。どうなろうと、医者が何と云おうとも――
 これらには、チェホフの作品中のある光景、気分の断片が照りかえしている。芸術家生活の小さい合わせ鏡。
 この小さい、あらゆる点でチェホフらしい生活の
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