は時々理髪店へ行かなければならない。帰ると、ホテルの部屋で小さくない騒ぎがある。彼女の日本の皮膚は、とてもこのロシア的チラチラを我慢できない。自分で背中は見えないから、私が土耳古《トルコ》風呂の女番人のようにタオルを振り廻し、彼女の頸から黒い東洋の毛を払い落さなければならない。――名声ある作家と愛された女優との夫妻は、彼等のあたたかい、誠実な才能に溢れた手紙の中で、劇について、芸術の本質について、香水と雑誌について語る。が、忘れず最後に、作家は夫として書いている。――お前が羨しい、横着者奴、お前は風呂へ行ったね※[#感嘆符二つ、1−8−75]――ロシアでなくてどこにこれがあろう。
 クニッペルに書かれたいろいろ日常茶飯のこと、チェホフが愛情の濃やかさから書いたそれらの日常茶飯の描写に、我々は彼の短篇の種々なモーティヴの潜在を感じる。
 南方の九月のヤルタ、天気がよいのに雨が降ってくる。長くしなしなして、ちょっとの風にも物思わしげに揺れたり屈んだり伸びたりするアカシヤの並木がチェホフの書斎の伊太利《イタリー》窓から見える。花壺の中の緑の仙人掌《さぼてん》が庭にある。遠くの海に艦隊がきた。
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