、私のすぐ傍で暖房《ヒイター》のうねうねの上に腰かけ、やはりその本の一冊を読んでいる彼女に向って断言する。
――本当に、よくてよ。「お前」になってからなんか、調子があるわ。
我々の読んでいる本は、チェホフ全集第十巻「妻に送ったチェホフ書簡集」で、新潮社がモスクワにいる訳者に送ってよこしたものだ。モスクワにいる訳者は、今、高加索《カフカーズ》の靴を爪先にぶらつかせて、私の傍の暖房《ヒイター》に腰かけている。
これは、小さい本だ。量において世界的記録を有する日本の夥しい翻訳本の一つだ。この本も、他の多くの仲間とともに二年後には南京豆の紙袋と化して夜店に現れるだろうか。くだらない本だろうか。私はそうは思わぬ。この本が、ボリソフから届いて始めて訳者の机の上に載せられた時から、我々は共通な興味を感じた。彼女は翻訳する気になった。最初の部分は、小石川の動力の響が近隣の小工場から響いて来る二階で。中頃の部分は、鎌倉の明月谷の夏。我々は胡瓜と豆腐ばかり食べて、夜になると仕事を始めた。彼女はそっちの部屋でチェホフを。私はこっちの部屋で自分の小説を。蛾が、深夜に向って開け放した我々の部屋から部屋へとんだ。最後の分は、駒沢の竹藪のある部屋で訳された。
すべて、人間が自分の内的生命を注ぎ出して書くものには必ずその人の調子と云うものがある。思想的傾向とか、主要観念とかいうものの他、その人の心理的なテンポ、硬度、音波がある。媒介物である文字さえ文法的に正確に捕えたら、その作物の全リズムまで捕えたとは決していえないと私は思う。特定の波長に対しては特定の検波器がある。電波に関するこの中学生的常識は、文学における原作者と翻訳者との関係にも極めて自然に適用される。すなわち、私はこれだけのことを云いたい。私は訳者を識っている。平常着のままでよろこんだり、むずかったり、癇癪を起したり、モスクワへきて、雪で滑ったりする彼女を知っている。そして、チェホフの、この一種特別な妻に与えた手紙を翻訳することにおいて、彼女がかなりな程度まで調和する自身の構造を持っていると。
どの書簡でもそうだが、これらのチェホフの手紙は相変らず賢こい。しかし、彼の出版者マルクスへやった手紙よりは、当然感傷的だ。訳者の思想や文法的知識以上に、彼女の感情がこの翻訳に大切な役割を持った。だから、心持に手綱のかかっている前半より、一
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