シナーニ書店のベンチ
宮本百合子
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)厳寒《モローズ》
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)大分|晩《おそ》く下りた。
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号)
(例)※[#感嘆符二つ、1−8−75]
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厳寒《モローズ》で、全市は真白だ。屋根。屋根。その上のアンテナ。すべて凍って白い。大気は、かっちり燦いて市街をとりかこんだ。モスクワ第一大学の建物は黄色だ。
我々は、古本屋の半地下室から出た。『戦争と平和』の絵入本二冊十五ルーブリ。
大学の壁にビラが貼ってある。各劇場の今週間の番組。曲芸師ケファロの横顔――
ほとんど通り過ぎかけて、私は俄《にわか》に声を出して云った。「園《サード》がある、園《サード》が」ビラの一つに、「園《サード》」という大活字がたしかに見えた――
「――園《サード》? 何さ」
「桜の園じゃない?」
私のロシア語は、一瞬にいくつもの文字を視神経で捕え得るほど、まだ発達してはいないのである。私の日本からの道伴れは、彼女の肩をふってビラの前へ戻って行った。
「本当に――そうだ」
「何処?――大劇場……芸術座《ムハト》じゃあないのね、どうしてだろう」
「これは、特別興行だな。ホラ、たった一日だけ演《や》るんだもの、一時に大勢に観せてしまおうというわけなんだろ」
こんな問答をしている二人の日本女を、皮帽をかぶった少年が傍に立って好奇心を面に表し、眺めている。
私共は芝居広場へ行って見た。我々は久しい前から、このビラの出るのを待っていた。今年のシーズンにチェホフの作は一つも上演されなかった。或る人は、いつか「叔父ワーニャ」を、芸術座で演る筈だと云う。或る人は、いやそれはしないが、桜の園は確定したそうだと云う。私共は何時、何処で、チェホフの何が観られるものか、全然知ることができなかったのであった。
切符売場には、既に幾条も前売切符を買うための人列がうねくっていた。切符はどちらかといえばたかい。二月十三日は私の誕生日なので、私の道伴れは奮発して平土間の第八列目を買った。
上靴《ガローシ》の中で足が痛いほど寒かった。街はますます白く、ますます平べったかった。モスクワ労働新聞社の高い窓の一つに
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