午後三時の西日がさして、火のように硝子を燃やした。
大劇場は、ふだんアイダや、サロメや、ボリス・ゴドノフを上演するところだ。月曜日にオペラの俳優達は、彼等の喉を休ませる。そこへ、今日は、モスクワでは珍しい日本女まで混えた大群集が六階の天辺のバルコニーまで、チェホフの「桜の園」を観ようとつめかけた。
棧敷《ボックス》の内張も暗紅色、幾百の座席も暗紅色。その上すべての繰形《モールディング》に金が塗ってあるからけばけばしい、重いバルコニーの迫持《せりもち》の間にあって、重り合った群集の顔は暗紅色の前に蒼ざめ、奥へひっこみ、ドミエ風に暗い。数千のこのような見物に向って、オペラ用の大舞台がそろそろと巨大な幕をひらき、芸術座の演出法で第一場を現した。
――桜の園――然しこれは、何だか居心地わるい桜の園だ。すべてが大きすぎる。ラネフスカヤの家に、オペラの大道具が突立っている。オペラ物らしくぞんざいで、色ばかり塗りたくってある。
経済的理由で、唯一晩の興行に、できる丈間に合わせをやったとしても、相当美しく、情緒を湛えてラネフスカヤがそこに再び母を見、自分の青春を見、涙さえこぼす桜の園が、窓からどんなに見えているかといえば、得たいの分らない、ただの茶色っぽい花模様の書割だとしたら――。築地小劇場ではどんなにそれが朝らしくあったか……桜は白くにおやかで、ラネフスカヤの心持と調和していたか! ロシアの桜は本場の日本の桜と違うというなら馬鹿げた洒落だ。
書割で、我々は絶えず築地へのノスタルジヤを感じ通しであったが、ラネフスカヤは? アーニャは? ロパーヒンは? 彼等はやはりよかった。
ラネフスカヤのまるで無計算な、上品で、真心があって、しんのしんまで暖い性格が、第三幕目では遺憾なく見物の心を捕えた。
ラネフスカヤの性格は、いわゆる劇的に誇張されたものでないことが、今日でもロシアのある女のひとびとを見ると、私共に感じられる。もちろん桜の園以来、彼女は一九一七年、二〇年を経験した。ラネフスカヤのように無計算では生きられなかった。彼女は遙にしっかりした主婦らしさを備えている。然し、眼の中にか声の響の中にかどこかに、この暖かさ、善良さ、心持よい真率さがのこって生きている。ロシアの女優にとって生粋にロシア女であるラネフスカヤを演じることは自然だ。自然に生活の中にあるが儘に演出すること
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