るってのが彼らの考えかただから、妙さ!
妙な考えかたをするという点においてはイタリーのファッシズムとロシア・プロレタリア独裁が氏にとって全く相ひとしきものである。
「英国人の着実な商魂が実際においてどれだけの働きをしているかと云うことは、炭坑夫安寧協会の仕事を見ても分る。炭坑主が一頓について一ペンスだけ出して独立な大きいビジネスをやってるんだ。」
しかし、その同じ着実な商魂が考え出した英国炭坑における合理化《ラショナリゼーション》と云うことは、二年前(一九二七年)に比べると十六パーセント減の労働人員によって前年より千三百万頓増大した採掘量を持ち、労働者の賃金は一交代九シリング六ペンスから九シリング一ペンス1/2に落ちて死傷率が高くなったという事を意味する。
ペンネン通十三番地。労働大学《レーバーカレッジ》の露台の上に大きな「売家《トゥ・ビィ・セールド》」の広告が張り出されていた。内部は空屋同然である。前垂をかけた掃除女が一人廊下を歩いている。階下の戸を開けっ放した室で年とった四角の体の男が時々来て残務整理をやった。
――御承知のような現状で坑夫組合はこの学校で三十人前後教育するために年三四千ポンドを負担するに堪えなくなったのです。昨今の形勢では折角それらの人々を教育してもかえって逆な利益の為に利用されることになってしまうので、残念ながら断然閉鎖に決心しました。
西日が表戸の真鍮板と売家の広告の上に照っている。真鍮板の「労働大学」という字がキラキラ往来に向って光った。
日曜日である。店はしまっている。閑静な通りを乗合自動車《オムニバス》が展望を楽しみつつガラスを輝やかせつつ数少なく走っている。
聖ピータア寺院の石だたみでよごれた鳩の群が餌をひろっていた。子供づれの男女が立って紙の中からパン屑をまいてやっている。日曜以外の日ここの大石段は常に大勢の何時になったらそこをどくのか分らないような連中で占領されていた。或る者は石段にかけ、ひろげた膝に肱をつっかって頭を手の中へ埋め込んでた。すっかり扉の下まで登り切ったところでごろりと長く横になってる者もある。大石段は目的のない人間のいろんな姿態《ポーズ》で一杯に重くされ、丹念に暇にあかして薄い紙と厚い紙とがはなればなれになるまで踏みにじられた煙草の吸口などが落ちていた。ボソボソ水気なしでパンをかじった。鳩が飛んで来てこぼれを探し、無いので後から来た別な鳩の背中にのり大きく翼をバカバカやった。
今日は日曜で大石段はすっかりからりとしている。聖《セント》ピータア寺院の内部で説教があった。パイプオルガンが時々鳴った。会衆は樫の腰かけから立ったり坐ったりしてアーメンと云った。子供が自分の退屈をまぎらすため、脱いだ帽子を体の前に行儀よく持って立ちながら下を向いて、できるだけ踵を動かさず靴の爪先をそろそろ重ねる芸当を試みている。眼鏡で鼻柱をつまんだ僧侶が説教壇に登った。
――宗教とはいかなる禁制をも意味しない。ただ諸君とおよび諸君の光栄ある子孫の一生のための秩序、原則としての宗教あるのみである。
少年団《ボーイ・スカウト》大会出席のためロンドンへ出て来た大男の団長《スカウトマスタア》が実用的なことは靴とひとしい説教の間にそろりそろりと裸の膝頭でベンチの間を抜け聖壇正面がすっかり見える大柱の下へ立った。
出口のやっと一人ずつ通れる柵の左右に僧が立って口をあけた喜捨袋を突きつけた。
ハイド・パアクの騎馬道では艷やかな馬と人とがひるまえの樹の下を動いていた。おさげの少女である。山高帽と黒い乗馬服の長い裾との間に現代英国女性の容貌がはっきりはまっている。数騎の男も混ってだくを打たせたり馬上からかがんで柵越しに散歩道の知人と握手したり自由にかつ調和を保って動いている。日曜の教会礼拝時間後から午餐までハイド・パアクのこの騎馬道とそれに沿う散歩道は上流の社交場である。怪我をするなら上流の人だけがする唯一のところなのだ。騎馬巡査が二人その辺を行ったり来たりしている。――
一時近くなると騎馬道の上にも人影がまばらになる。柔かい砂が樹の下に遠くかなたまで続いて見通せた。二人の騎馬巡査は二三回その辺をまわると人気ない騎馬道を気持よさそうに鞍の上で尻をおどらせながら駈け去った。もう警固のいる人間なんぞは来ないのである。ハイド・パアクのあっちこっちの門から子供連の夫婦――亭主は乳母車を押し妻は一人の子の手を引いていると云うような世帯じみた一団がぞろぞろ入って来る。警官音楽隊が音楽堂の中で軍楽を奏し始めた。肩の縫目の一寸ずったような絹服を着て非常に陽気な若い女づれ。花壇をいちいち眺めながら歩く指の太い婆さんと息子づれ。――日曜日の午後ハイド・パアクはハイド・パアクの附近に住みながら一週に一遍だけそこを散歩出来る連中――事務員。料理女。いろいろな家庭雇人の洪水である。
小みちも草原も人だ。人だ。
自然と人間の割合がこんなに逆になる日曜日彼らの主人達は、ハイド・パアクへなんか姿は現さぬ。週末休《ウィークエンド》に自用車をとばしてどっか田舎のクラブか、別荘か、公園か、とにかく彼の週給額を半径となし得るだけ遠くロンドンから飛び去る。
赤羅紗服地の見本みたいに念の入った恰好をした英国の兵士達が剣がわりの杖を小脇に挾みながら人通の繁いハイド・パアク・コオナアで横目を使った。そこでは乗合自動車《オムニバス》を降りるとその足で真直「婦人用《レディース》」と札の下った公園の鉄柵中へ行く女は大勢ある。
半本しか脚のない胴をすえて乞食がせっせとペーヴメントへ色チョークで鼻の脇の真黒な婦人像、風景等を描いていた。「|有難う《サンキュー》!」「|有難う《サンキュー》!」石の上に書いてある。英国で乞食は声を出して慈悲を強請することは許されぬ。与えられる親切に対して感謝を表すだけが許されるのだ。「|有難う《サンキュー》! もし私の仕事が貴君の一ペンスに価するならば!」
洗いざらしでも子供に着せる日曜着がある者がヴィクトリア公園に出て来て遊んでいた。入ったばかりの樹の下に路傍演説者が何人も札を下げた台を持ち出し、思想陳列をやっている。
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│基督顕示協会│
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│国際社会主義│
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諸君! 諸君は大戦によって何を得たか? 利益を得たのは誰であったか? 大体声が足りない。隅っこに引込んで樹の枝の下から肺活量の足りない声が休日の労働者のまばらなかたまりの上に散った。人気があるのは、
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│自由思想家│
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台をかこんでびっしり帽子のあるのや無いのがきいている。しゃべっている山羊髯は痩て蒼いが底艷のあるようなほっぺたに一種のにやにや笑いを浮べ、ゆっくりしゃべりつつ聴衆を見渡した。――たとえばだね、月夜の晩人のいない公園の小道で青年が一人の若いとてもたまらない女に出っくわしたとすると、どうだね。我々にしろ当然どうもある感覚を感じざるを得ない。(聴衆が笑う)ところでその感覚は肩から羽根を生やしたキューピットの仕業だと云う。本当かね? とんだ嘘八百だ! 青年は「男」で女が可愛い「女」だからじゃないか。生物学の仕業だ。弓の玩具なんぞふり廻してまだ一人前の男にもなってないキューピットの果して知ったことか? 聴衆はパイプを口からとって、地面へ唾をはいて、笑っている。
離れた草原で女たちが真上から日に照らされながら足を投げ出していた。子供がいれた胡麻粒みたいにその間をはねてる。路傍演説なんぞ聴く女はほとんどなかった。
池では貸ボートが浮いてる。一人や二人でのっているのはごく少い。五六人ずつで、水の上を動いて低い橋かげをくぐる時なんか歓声をあげている。
ハイド・パアクの池は広く、遠い河のようだった。みぎわを葦がそよいだ。水禽《みずとり》が人々の慰みのためキラキラ水玉をころがして羽ばたきをしたりくちばしで泥から餌をあさったりしている。
ヴィクトリア公園で池は狭い。一寸行くとボートは島みたいなものにぶつかったり、橋げたにすいつく。それでも、市《シティー》大会社の腰高椅子や卸問屋の地下室から来たらしい若者達はコンクリートではない水をバチャバチャかきわけ、空気と日光を感じて日曜を笑っている。
乳母車。これを押す男女。子供。車輪付椅子、並木路は一杯である。或る女は日曜のエナメル靴を穿いたりしているのだが、この行列《パレイド》は見えない何かを一緒に後へ引っぱって、練り歩いている。日曜が年に五十二度あるという暦だけでこの付ものは消えない。日曜だってヴィクトリア公園の子供の顔は逆三角で、二つでも大きい子が小さい方の子の世話をやきやき並木路を練って行く。ここでは子沢山である。|山の手《ウエスト》の公園で五人も子を連れた夫婦はなかなか見つからない。この並木路の上では子供がひとりでに分裂してまた子供をこしらえでもするように子が多くて、親は二人で、それが最後かあるいは後三人の最初か分らぬ、最近の子を乳母車にのせて押して行く。
ダリアばかり咲いた花壇の横で若いものがテニスをやっている。六つばかりの男の子が網にしがみついて見ている。飽きず見ている。二人の子をつれて先へ歩いていた親たちが道を角で立ち止ってこちらを見た。
――ジョーン!
網目へ両手の指三本引かけて鼻をおっつけたまま子供には呼声が聞えもしない。山高をかぶった父親が小戻りして来た。
――ジョン!
ぎゅっと子供の手首を引っぱって網からはがした。彼の背広の襟の折りかえしが糸になっていた。
午後のテームズ河を小蒸汽がさかのぼりつつあった。小蒸汽はキュー植物園《ガアデン》で一日暮したが帰るに自動車を持たぬロンドン人を甲板に並べた椅子に満載している。白い手袋をはめさせられた女の子が椅子の上で日曜着の膝に落ちた煤煙をふき払った。河上は風がある。ウェストミンスタア橋に近づくと、河の水からやっと這い上ったばかりの猫が一匹コンクリートの河岸のでっぱりの上で盛に上を見ながら鳴き立てていた。河岸まで遠いが猫がずぶ濡れなことや鳴けるだけの力で鳴き立てている事は進行中の小蒸汽の上から分る。甲板にある多くの顔がそっちを見た。一二間わきへよった河岸の欄干に体をもたせて半ズボンの少年がその溺れそこなった猫を見下している。猫のやっとしがみついて居るところから河岸の土までは高くて垂直だった。
ピカデリー広場でイルミネーションがちらつく時刻である。郊外からロンドン市へ向う街道という街道の上を自動車があらゆる型を並べて疾走した。そして月曜日の夕刊新聞は左の報告と記事とをのせるだろう。週末《ウィークエンド》の自動車事故何件。死傷何人。先週より何%増。
「娯楽《プレジュア》ドライヴは果して窃盗罪を構成せざるや」
ロンドンで自動車運転許可は郵便局へ五シリング払い込めば貰える。だが運転すべき自動車そのものはハロッズで売っている玩具でも五シリングよりは高い。
近代|倫敦ボーイ《コックニー》のある者は生涯到来することなき自動車購入の時節を空しく待ったりしないで、たとえばこの土曜日の夕方だ。|山の手《ウエスト》をぶらぶら歩きしていた十六歳のジョンソンはふと或る門の前に止った一台のオウバアンを認めた。二人乗用《トゥシータース》の新型で、何だか短いスカートから出ている娘の膝っこみたいな車だ。素通り出来ないような型の車を道端に乗りすてたミスター・ウィリアムズの不幸でジョンソンはそのオウバアンに乗っかった。はしった。大いに冒険心と快適な娯楽心とを満足させ夜更けてから元の門近くまで戻って来たところで腕を捕まえられた。が、オウバアン一台を盗む意志はないのだし、事実盗んだのではないし、ジョンソンは既に何十人かの先輩の例にならって一寸|娯楽《プレジュア》ドライヴに借りたんです、と肩を上げたり下げたりするだけだ。
この新型ヴァガボンドはすでに幾多の英国紳士を胆汗過多におと
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