ロンドン一九二九年
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)乗合自動車《オムニバス》

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)「|英国の家庭《イングリッシュ ホーム》」

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号)
(例)※[#感嘆符二つ、1−8−75]
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 手提鞄の右肩に赤白の円い飛行会社のレベルがはられた。「航空ユニオン。27」廻転するプロペラーの速力を視覚に印象させるような配列法でこまかく、赤白、赤白。
[#ここから2段組み、横書き、底本では前後の文とは改行しない]
巴里。    ロンドン。   リオン。    マルセーユ。
9.オーブル通 ヘイマーケット パレス・ホテル 1.パーベル通
[#ここで2段組み終わり]
レベルは射的店の風車に似ている。
 四時間前、鞄は巴里の飛行会社で白エナメルの計重器の上にあった。いまそれはロンドンのただなかにある。ホテルの古風なセセッション式壁紙の根っこに置いてある。
 少しばかりの着物の束を押しつけてオリーブ色の手帳、大日本帝国外国旅券NO・084601が入っていた。あっちこっちで引くり返され端がささくれ始めた第七頁には携帯人の写真、第十五頁に英国旅券掛の紫スタンプが七シリング六ペンスの皇帝ジョージの横顔の上に押してあった。そして書いてある。三週間以内ノ英国滞留ヲ許可ス、と。
 手に赤い厚紙切符を握り日本女は乗合自動車《オムニバス》に乗っていた。乗合自動車《オムニバス》は二階だ。黄、赤、黒の英国式色調だ。辻々でヘルメットをかぶった六フィートの巡査の合図にしたがって止る。ある場所では長く待つ。「待って見ていよう」世界的に有名な一英国の標語《モットウ》に従って日本女はバスの窓からロンドン市を眺め渡した。
 ロンドンは八月の太陽の下に都市計画《タウンプランニング》のない大都市の街筋をひろげている。公園のまわりにはいろんなアーチがあった。公園の濃く茂った木と青草が並木道がわりだ。ボンド街やリジェント街でショー・ウィンドウの大ガラスは、磨かれたそのおもてに、続けざまに止ったり動いたりする乗合自動車《オムニバス》の姿をうつした。歩道を往来する女達の英国式かかとをも反映させた。イギリスの女靴はイギリス女の体がいやに細長いようにとんがって長い。それから時々ショー・ウィンドウ硝子板の世界的近代商業の輝きの隅に、純然たるイギリス風なあるものが現れた。それは頭に小さい王冠をのせた黄金の獅子と一匹の馬とが左右から一つの楯にしがみついている紋章である。これと同じものがバッキンガム宮殿の門扉の上にあった。リジェント街一〇〇番の洋服裁縫店のショー・ウィンドウにある。ある馬具屋の窓の上に、リプトン紅茶の小箱の上にある。「皇帝御用指定商《バイ アポイントメント トゥ ヒズ マジェスティー ザ キング》」リプトンはセイロン島の土人に茶を拵えさせながら、ヨーロッパのヨット界の親玉になっている。
 八月のロンドンの空気は乾燥している。毛織物を食う虫はこの空気中では湧かないのだそうだ。だが、かわいた空気はざらついた。そして喉の奥を引っかいた。そういう空気を押し破って下町から山の手に、山の手から下町へ陸続進む乗合自動車《オムニバス》の運転手はどれも若い、壮年だ。白っぽいうわっぱりを着て、プリンス・オヴ・ウェルスもそうであるように、一寸赫みがかった横顔で高いところへ坐っている。タクシー運転手も同様に白いうわっぱりを着ているが……だが何故こんな爺ばかりなのだろう。窓から見ていると、ロンドン市のすべてのタクシーは旧式に、すべての運転手は年寄に、と決議したようだ。八月の風邪を恐れるように幌をしめた箱馬車型タクシーが炎天下へやって来る乗合自動車《オムニバス》と並んで停る。うわっぱりのだぶついた胸へ番号札を下げた運転手はどこやらあおい瞳がすでにうるみかけた爺さんだ。また来る、止る。爺さんだ。爺さんの運転手は元気な乗合自動車《オムニバス》の巨大なずうたいに向って彼のエンジン付馬車をならべ、はからず、労働市場の淘汰見本を現出している。しかし彼ら自身はこれにたいして懐疑的でない。
 泰然として進化《エヴォリューション》を信じ、疑わないような群集をつっきり、日本女はある角で乗合自動車《オムニバス》を降りた。小さい飲食店に入った。
 色とりどりにふんだんな野菜がある。
 白レースを額の前につけ黒絹靴下できりっとした給仕女である。
 そしてタイル張の床の上でそういう給仕女もテーブルにむかって坐っている客達も一種特殊な技術でたくみに各自の声の限度を調節してやっている。
 ――何を上りますか?
 給仕女の声は自然であって自然でない。
 ――冷肉とサラドを貰いましょうか。
 それはミセス・XX《エッキスエッキス》の地声だ。が、生《き》ではない。――
 こういう話しっぷりそっくりな中流住宅がロンドン市いたるところで目についた。むずかしいことはない。三ペンス払って乗合自動車《オムニバス》に乗る。そしてさっき日本女がやっていたように窓へ顔を押っつけて過ぎ行く街筋を見ていると、やがて諸君の目前に現れるだろう。窓を五つばかり持つ小ぢんまりした二階建の正面が四五軒から八九軒立である。が、おのおの三尺の入口扉が独立についている。第一軒の入口に白い柱列《コラム》でもあればそれは三坪ほどの前栽に向って全建物が終るまでつらなっているであろう。そして小砂利か煉瓦でたたんだこみちが往来をくぎる垣根までつけられている。垣根は低い。前栽の金魚草・たちあおい・ゼラニウム・緑・赤毛糸ししゅうみたいな花壇とその奥の窓々に白いレース・カーテンをかいま見させるていどに開放的である。しかししんちゅうにぎりの入口扉と窓枠は往来に向って独特の静まりかたをしていて――つまり紹介状なしに人は入れぬ「|英国の家庭《イングリッシュ ホーム》」を示威している。ソヴェト・ロシアの「住居」の観念とこれはまるで違う。また、ル・コルビュジエの「家」の観念とも違う。イギリスの多くの尊敬すべきMR《ミスター》・AND《アンド》・MRS《ミセス》にとっては或る種の日本人のように家すなわち国家細胞としての家庭で、彼らはどんないいことも悪いこともその中で考えたりやったりしているのだが、ただそのやり方が支那人のように叫喚的でも日本人のように神経的でもなく――そうだ! この話し振り通りの要領である。互に他人に聞かす分量と自分の内へしまっておく分量との区別を知りそれを常に間違えない技術的訓練でやっているのである。
 小指にはまった指環が暑い日光に光ってひっこんだ。日本女の前にレモンをそえたドーヴァ鰈《かれい》のフライが置かれた。
 ドーヴァ鰈のフライは、頭から食べてもしっぽから食べても、靴をぬいで食べないかぎり英国の徳義には触れぬ。魚は新鮮である。胃はからだ。片身がきれいにとれると美しい骨格が現れた。が、黄色鮮やかなレモンの皮に向ってひろげた魚族の骨の真中に、日本女は小さい小さい飛行機の機影が映っているように感じた。ドーヴァ海峡の海の水を霧の上空からみおろすと紫がかった灰色だった。海の面に毎日飛行機の影がとぶ。影は水をとおす。水の中を泳ぐ魚の体の上にもうつる。フォークをひかえて、日本女はしばらく近代魚類体中の飛行機をロンドンに於て生新に感覚し、それからそれを引っくりかえし愛情を感じつつ皆食べてしまった。

 穿鑿《せんさく》機の激しい音響は鼓膜をしびらし、暑い空気を白い炎のようにふるわした。
 ホワイト・チャペル通の右側は掘じくり返し積み上げたコンクリート道路工事の塹壕である。乗合自動車、貨物自動車、荷馬車。互に待ち合わせ強烈な爆音中で時間の感覚を失いながらのろのろ進行した。
 横丁にずらりと露店が出ている。バナナ、駄菓子、古着、ボタン紐、道路工事に面する大通のペーヴメントにはほこり、古新聞のほご、繩片、煙草の吸殼等が散っている。子供を片腕にかかえ、袋を下げた神さんが行く。白粉と紅との下から皮膚の垢を浮出させた十八ばかりの可憐に粗末な造花、安女店員がいそぎ足で通る。手のついたブリキ罐をぶら下げ格子木綿の服を着た男の子供が、格子木綿の女の子の服を着た弟の手を引っぱって行った。子供はどっちも帽子なしである。ポヤポヤした彼らの薄赫い髪の毛を八月の土曜日の太陽がすき透した。コーセット店のショー・ウィンドウが埃をかぶっている。山の手では見られない古風な紐じめ大コーセットが桃色である。
 気がぼっとする穿鑿機の爆音のうちへ、或はその中から、通行人は歩道へぎっしりだ。ひどいぼろ服に鳥打帽や古山高を後へずらしてかぶり、カラーなしの男たちがあっちに二三人、こっちに一塊り立って、ぼんやり働く人間の群の方を眺めている。英国の登録されたる失業者総数凡そ百二十六万人弱。
 選挙のとき労働党は民衆に約束した。「労働党はただちにそして実際的に失業問題に処すべき無条件誓約を与える」数年間にわたっての失業救済事業案が出た。幼年者補助養老扶助年限が繰下げられた。しかし同時に統計は示している。労働党治下の失業保険掛員は七月一杯だけで、保守党時代よりさらに多く、五千人の失業者にたいして補助をこばんだ、と。イギリス労働組合保険連盟は「本気で職業を求めていぬ」という微妙な心理的理由によって失業保護を拒絶する権利をもっている。同じ労働組合の協定によって鉄道従業員、木綿羊毛織工及炭坑夫は国家の工業をたすけるべく[#「国家の工業をたすけるべく」に傍点]数パーセントの賃金切下げを決定された。従業員の賃金を2・1/2パーセント切下げているうちに、鉄道事務員組合書記エー・ジー・ワークデン氏のところでは年俸二百五十ポンドが年俸千ポンドに上昇しつつある。
 ――大通からコムマアシャル街へ入ると人通りもへった。穿鑿機の音響は遠く息苦しい空気のかなたにある。しばらく行く。右側に古風な軒燈が一つ。軒燈には黒字で「トインビー・ホール」。トインビー・ホールはオックスフォードおよびケムブリッジ大学卒業生によって経営される知らぬ者のない英国セットルメント事業の本山である。暗い円天井の壁門の内側に一枚の貧児夏期学校へ寄附募集のビラがはられている。ビラは古い。破れている門を抜けると内庭がある。つたの青々からんだ塀と建物が静かに内庭を囲んでいた。「貧民法律相談所」矢のしるしが建物の裏を示している。
 内庭にも受付にも人がいない。受付の横から狭い廊下があっちへ通っていて、箒を持った働き女の姿が見えた。日本女はその働き女を呼び止めた。長方形白封筒を渡した。暫くすると別なやや知的表情のある女がその奥の暗い方から出て来た。日本女と話して引込んだ。今度はその女自身が白封筒を手にもって戻って来た。
 ――今日は土曜日でもう誰もいないからおめにかけることが出来ません。月曜日にいらして下さいな。
 ――土曜日の午後は休みなのですか?
 ――そうです。すっかり休みます。
 なるほど! 銀行会社の休日にはセットルメント事業も休日だということは知らなかった。内庭に立って古色蒼然たる蔦を眺めていたらこれも歴史的な金網入りの窓の奥に真白いテーブル掛が見えた。そこで新聞を読みつつ午後の茶を飲んでいるところの一紳士の横顔が見えた。
 ――休みの土曜の午後か。ロンドンの困窮せる人はすでにこの習慣を知っているのだろう。だから勤めの休みな土曜日の午後はトインビー・ホールへ来ず、いつか別な日に勤めを休むか早びけかにして来るんだろう。しかし、その目でモスクワを見て来た日本女はロンドン人のように忍耐強くない。
 門を出ると往来に面した掲示板に、九月二十三日開始の成人教育プログラムがはり出されていた。経済、文学、歴史、英語、仏語、独語、劇、雄弁術、美術、音楽、民族舞踊、応急救護法。一科目料金五シリング。ここでは経済という字が中世風のゴシック書体で書いてあった。

 下半身にはズボンがある。上半身ははだかのところへじ
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