しいれた。明瞭な悪意がないと云うことと、しかも所有権被震撼者が神経消耗をやったあげく時には五日もかかる自動車修繕代を支弁しなければならぬと云うところに娯楽《プレジュア》の現代漫画性がある。
「賃金は低下されなければならぬ」ボールドウィン。
「然り、だが仲裁裁判によって」マクドナルド。
飢餓審判と戦え!
賃金値下げに対してストライキせよ!
少数運動者大会が争闘へ指導する。
新年から我等の日刊新聞を。それを持たないうち我らは共産党じゃない。
先ず犠牲を!
ドイツ労働者は『赤旗《ローテファーネ》』のために何をしたか。
コヴェント・ガーデンはロンドン野菜市場だ。花野菜、かぶ、きゅうりの山から発散する巨大な青くささに向って一つのガラス窓がひらいている。窓の内に赤い布で飾られたレーニンの写真がある。反帝国主義戦争のパンフレットが並べてある。粗末な古い木の床の左右は本棚である。トルストイ、トゥルゲニェフ、チェホフ、ゴーリキー、リベディンスキー、グラトコフ。それらの英訳が各国の翻訳論文集や、ミル、アダム・スミスとともに立ててある。ここは本屋でもある。正面の勘定台に男が二人、一人は立ったまま何か読んでいる。黒い細いリボンを白シャツの胸にたらした女が大きな紙の上で計算している。勘定台の後横から狭い木はしごの一部が見えた。そっちは、だがまるで暗い。外からの光線で、見えるのは数段のはしごと横のきたない壁面だけだ。鳥打をかぶった青年がドドドドとかけ下りて来て、勘定台から切抜帳みたいなものをとりまた昇って行った。
店の内部に居るのは六七人である。互に背を向け合って静に本を探している。小さい男の子の手を引いて体格のいい四十がらみの労働者が入って来た。彼は週刊新聞、『労働者生活』を三ヵ月分予約した。
その労働者が立ってる定期刊行物見本テーブルは幾分土曜日夕方のハイド・パアクにおける言論市場をほうふつさせた。労働組合《トレード・ユニオン》の機関紙、炭坑組合新聞などが党の刊行物とともに売られている。
トラファルガア広場のトーマス・クック本店横から二台の大型遊覧自動車が午後七時の薄暮をついて動き出した。
トーマス・クック会社名前入りの制帽をかぶった肥っちょの案内人が坐席から立ち上って「ここがオックスフォード通。只今通りすぎつつあるのはロンドンの最もしゃれたレストランの一つ、フラスカテイであります。フラスカテイー!」叫んでいる時にロンドンが夜になった。
遊覧自動車はそれから東へ東へととって肉市場スミス市場のアーク燈に照らされた白い鉄骨アーケードの下を徐行した。古代ロンドンの城門の一つをくぐった。
一本の街路樹もない、暗い狭い街が現れた。ガス燈が陰気にひのけない低い窓々を照し出しているきたない歩道を、そこの壁と同じような色のなりをした人間がぞろぞろ歩いている。闇をつんざいて時々ぱっと明るい通があった。戸のない階段口が煙出し穴みたいに壁へ開いている。
┌────────────┐
│寝床。六|片《ペンス》。 │
└────────────┘
木賃宿である。
案内人は立ち上らず坐席から首だけのばして大きくない声で説明した。――ここいらが皆有名な東端《イーストエンド》の一階家《ワンストーリィドゥエリング》です。
再び暗い街。暗い街。暗い建物のさけ目から一層黒い夜が鋭い刃のように見える横丁の前をトーマス・クックの東端《イーストエンド》遊覧自動車は体をほっそり引押すようにしてすべり過ぎた。
市営労働者住宅は七階だ。が空間利用法によって七階までの鉄ばしごは道路に面した空中へまる出しだ。レインコートを着た男が一人三階目の露台を通って四階目へ登りつつある。彼の姿はどこかの扉へ入ってしまわぬ限りてっぺんへ登り切るまで下の往来から小さく鉄ばしごの上に見えた。
「民衆宮《ピープルス・パレス》」で彼らは蓋したベッシュタインのグランド・ピアノを見るだろう。英国史上あらゆる女皇の不器量な大理石像を見るだろう。止った遊覧自動車のまわりは顔面と声だけ夜から見分けのつく大小の子供達で鈴なりである。
――ペニーおくれよ、小父さん!
――お金! お金おくれ!
外套の前をきっちり合わせ肩をいからすようにして子供たちをかき分けながら男達は急いで腕を支えつれの女を先に自動車へつれ込んだ。運転手が巻煙草を子供連に分けてやっている。
ポプラア通りだ。電気仕掛の大十字架だ。ペニーフィールドの支那町《チャイナタウン》は夜九時のロンドン・ドックを通り抜けると同じ速力で。
テームズ河底のトンネルは白タイル張で煌々たる電燈に照し出された。大型遊覧自動車のエンジンの音響はトンネルじゅうの空気をゆすぶった。塵埃を捲き上げて穹窿形の天井から下ってる大電燈の光を黄色くした。鳥打帽の若い労働者が女の腕をとって、その長いトンネル内を歩いている。男も黒いなりだ。女も若いが黒いなりだ。全光景はマズレールに彫らせ度い大都会の強烈版画的美しさである。
説明しないいろいろな動機から、東端《イーストエンド》を廻って来た、どこの誰だか判らぬ人々が三時間目に再びトラファルガア広場で散らばった時、ロンドン市の上へ月がのぼった。
ロンドン市は片眼をつぶり、片眼を開けて数百年、夜じゅう起きていた。月は片眼のロンドンでデイリー・メイル社の電気広告の真上を歩いている。
十一時、ピカデリー広場やチャーリング・クロス附近から一斉に英国国歌の吹奏が起った。
――|神よ・我等の光栄ある王を護れ《ゴッド セーフ アワ グローリアス キング》。――タクシーが熱してはしり出した。どこへの宣戦布告だ?――芝居がはねたのだ。舞台衣裳に働かす活溌な想像力はパイプのやにの中にさえ待ち合わさぬロンドンの一流から四流までの劇場で、幕が下り、また幕が上り、舞台から夜会服の男女俳優が同じように夜会服の男女観客に向ってうわ目を使いつつ腰を曲げ、喨々《りょうりょう》たる国歌が吹奏されたのである。
ライオン喫茶部では大理石切嵌模様の壁がやけにぶつかる大太鼓やヴァイオリンの金切声をゆがめ皺くちゃにして酸素欠乏の大群集の頭上へばらまきつつあった。昨夜ここでマカロニを食べた二人連の春婦が同じ赤い着物と同じ連れで今夜はじゃがいもの揚げたのをナイフでしゃくって食べていた。食べながら遠いところのどっかへ向って腰をひねり、嬌笑した。失うべきものを持たぬロンドン人が月の下の街やのれんの奥にいた。
ホワイト・チャペル通でドイツ賠償問題に関する共産党の路傍演説が終った。「ミスター・フィリップ・スノウデンは勝った。然し英国とドイツの労働者は敗北したんだ。」月はこういう言葉を聴きいよいよ片眼のロンドン市の上へ高くのぼって、トラファルガア広場の立ち上ったところはまだ人間によって見られたことのない四頭の獅子とドーヴァ海峡の海のおもてを照らした。
[#地付き]〔一九三〇年六月〕
底本:「宮本百合子全集 第九巻」新日本出版社
1980(昭和55)年9月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本「宮本百合子全集 第六巻」河出書房
1952(昭和27)年12月発行
初出:「改造」
1930(昭和5)年6月号
※「――」で始まる会話部分は、底本では、折り返し以降も1字下げになっています。
入力:柴田卓治
校正:米田進
2002年10月28日作成
青空文庫作成ファイル:
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