すんでいるのは脱走したマドロスの外9%まで日本のまあ相当の人々[#「まあ相当の人々」に傍点]である。彼らに内在するあらゆる自然発生的中流的素質は、老大国の首府に暮すうち数等政治的年功を積み、実利主義によってきたえられたイギリス中流的秩序によって言語とともに整理される。英国人の他人種に馴れる馴れ方はフランス人の馴れ方と違う。英国人が或他人種に彼らの馴れを示した時は必ずその人種が彼等の物となってしまっている時である。かくて――
 S・M氏夫妻は日本に於ける彼の店がつぶれた後ロンドンへ来た日本人である。
 数ヵ年住んでいる。すでに質素なアパアトメントの壁はどんな紙で貼られているか見えなくなった。そんなにうんと経済に関する各種の書籍が集められた。M氏は多く読み、英国労働組合内に友人を持ち、ロンドンに於けるインド留学生集会に招かれて自治論を慫慂《しょうよう》した。
 ロンドンでなら、しかし、いつでもM氏夫妻に会えるとは限ってない。国際連盟の労働会議があると、夫妻はジェネ※[#濁点付き片仮名「ワ」、1−7−82]へ出かけた。労働代表はM氏の語学と時に応じての忠言で援助された。自分一箇の利害は没却して日本における労働問題解決の縁の下の力持、社会へ奉仕するのが商人でなくなったM氏の理想である。
 ロンドンにおれば、また相当来客がある。M氏程まだ充分イギリスを内臓へ吸収せぬ後輩、あるいははるばる官費で英国視察に来た連中が時間と語学の不足から彼のもとへ駈け込み、集約《コンサイス》英国観察供給方を依頼する。
 時に例えば某学校長のような訪問客さえある。校長君の意見によると英国を英国たらしめたのは何よりも英国の紳士気質《ジェントルマンシップ》だ。ゆえに努めてイートン、オックスフォード、ケンブリッジ等の教育振を視察して行きたいと思うがどうでありましょう。客間の壁には、マルクスと並んでおびただしい正統学派、心理学派経済学者の写真がかけ連ねられている。日曜日の午後は半ズボンで過す英国人らしく哄笑しつつM氏は説明するだろう。
 ――今更そんなものいくら見たってしょうがありゃしませんよ。今日では英国人自身が紳士《ジェントルマン》なんて言葉は便所にしか役に立ってないって云ってる位だもの。……ああ云うところはね、小さいうちから、お前達は特別な人間だぞ、と思い込まして特殊な支配者を養成したところなんだ。

前へ 次へ
全34ページ中24ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング